ラブレター逃走論
*女の子≠プロデューサー
事件は名前の一声から始まった。
悠介は享介よりも先に控え室に入っていた。彼のあとにやって来たのは、今日の番組で共演することになっている名前である。Wの二人よりも一つ年上の彼女であったが、堅苦しい雰囲気が得意ではないらしく、敬語は使わないで欲しいと彼らに自分から頼んでいた。今日もよろしくね、と言って頭を下げた名前は、享介くんまだかなあ、とドアのノブに手を掛ける。その後ろ姿を悠介がじっと見ていたが、いつまで経ってもドアは開かれない。開かない、と悲壮な呟き。ガチャガチャ、焦っているのか少しばかり乱暴にノブを回そうとする彼女を見かねたように、悠介が貸してと声を掛ける。彼女の力では開かなくなっているのかな、と思った悠介だったが、自分が力を入れてもビクともしない扉に唖然とした後、彼女の方を見ながら笑う。
「開かないな……」
「……ど、どうしよう」
「大丈夫だよ!享介が来たら気づくだろうし」
「そっか、享介くん早く気づいてくれるといいなあ」
悠介が離した手に、空中を彷徨っていた名前の手が一瞬だけ触れる。そこで二人は至近距離に互いの存在があることに気づく。ドア事件に気を取られてしまっており、距離が近いことについては頭になかったのだ。ハッとした表情の悠介に、なんと言葉を発するのが正解なのか分からない名前だったが、二人ともひと呼吸置くと、言葉も無しに先程まで座っていた椅子へと戻って行く。
椅子に腰掛けた名前は台本に目を通そうと鞄へ手を伸ばすが、その鞄は彼女の手に捕まることなく、床へと落ちていく。悠介が声を上げた時には、既に鞄の中身は辺りにぶちまけられており、化粧ポーチから飛び出たリップがコロコロと彼の足元へと転がった。台本を拾い、筆箱やポーチを手にした彼女はリップが転がっていったことに気づいておらず、悠介にごめんねと謝る。謝罪の理由はきっと、物を落としてびっくりさせてしまったからであろう。悠介は大丈夫だよ、と言いつつ、自身のカラフルな靴にぶつかったリップを拾う。女子高校生が好みそうな可愛いデザインをまるで品定めでもするかのようにぐるりと見た後、ちらりと彼女に目を向ければ、小さなメモに真剣な顔でペンを滑らせる名前がそこにいた。享介が気づく時間が長ければ長いほど、彼女との密室の時間も長くなる。リップをテーブルの上に置いた悠介は、足をパタパタと無駄に動かし始める。身体がむず痒い感覚に襲われているのだ。どこかを動かしていないと、落ち着いていられない。そんな気持ちだった。靴下の長さを調節するために足に手を伸ばせば、触れた指先が妙に熱いことに気づく。靴下が少し冷えているのもあったが、どう考えても手がいつもより熱を持っている。突然のシチュエーションに緊張してるのかな、オレ。自分自身に問いかけてみるものの、答えが出るはずもなく、彼は椅子に座り直した。
すると、名前が悠介の方をじっと見ていた。いつしか彼女が出ていたドラマのある一つの場面で、熱っぽい視線にクラクラさせられそうになったのを彼は思い出し始めていた。告白する場面を享介とプロデューサーと何度も見て、演技の参考にするなんてその時は言っていたが、それは単純に名前の芝居が見たかっただけなのだ。胸を刺すような、身体を熱くさせるような視線は悠介を堪らなくさせた。同じように隣で見ていた享介は、悠介の真っ赤な顔を横目で見ながらクスクスと笑っていたのだが、すっかり演技に魅了されてしまった悠介は全く気付かないままである。
そっと、小指の先で小さく折り畳んだメモを悠介の方に押しやった彼女は、すっと立ち上がると窓の方へと歩いていく。彼女は鍵を開けて、窓を全開の状態にすると、その淵に片手を掛けて、もう片方の手で髪の毛を耳に掛ける。閉めきられていた部屋に入ってくる風はひんやりとしていて、彼女の頬と悠介の手を冷やしたが、その仕草を見た悠介は名前から目を逸らした。ブンブンと首を振ると、折り畳まれたメモをぱっと取って、汗ばんだ手でそそくさと開いていく。
ドアの外で悠介、と叫ぶ享介の声が聞こえたのも丁度その時だった。プロデューサーの声も聞こえてきて、悠介は焦るように紙を開く。彼女が丁寧な字を書くことを悠介は知っていたが、それよりも書かれた文字に目が離せなくなった。たった四文字の、単純な言葉がどれだけ大きな意味を持つのか。悠介はもうそれが分かる年齢だ。動揺した悠介の腕がリップに当たったようで、それはまたもや床へ落ち、転がって行く。彼女のヒールにぶつかるまで止まらずに。
これが彼と彼女の密室事件である。
Title:誰そ彼
Image song:小さな恋の密室事件/白坂小梅