降伏せよ世界は開かれている


*女の子≠プロデューサー



麗くん、と呼ばれた声に振り返る彼はたくさんの楽譜を抱えていた。声を掛けたのは麗の幼馴染である。電信柱に止まっていた小鳥たちが一斉に囀り始めたと思えば、羽音を派手に立てて飛び立っていく姿が麗の視界に入る。今朝まで雨が降っていたのだが、彼が外に出る頃にはすっかり止んでいた。大事な楽譜を濡らさずに済むと、麗はひとり安心して笑うのだった。
自分の世界に閉じこもって、傷つけられることを恐れていた自分はもういない。その時も、変わらずに接してくれた名前に彼は心から感謝をしていた。アイドルになると告げた時だって、否定の言葉をひとつも吐くことはなく、麗の背中をただただ押してくれるだけである。新しい世界に飛び出していけば、知らない音が見つかることを彼女は知っていたのかもしれない。



「今、楽しい?」
「……まあ、大変なことだらけだが」
「都築さん?だっけ、同じユニットの」
「都築さんは素晴らしい人だ。でも、ふとした瞬間にいなくなるのは困っている」
「麗くん振り回されてるのね」



都築の話で盛り上がる途中、名前は麗の前にハンドクリームを差し出す。乾燥のことを気にする彼にとって、ハンドクリームは欠かせないものだ。音符や楽器がケースに描かれたそれは、麗の心を踊らせる。キャップを開けた彼女は、麗くん手を貸してと言う。まさか道の真ん中でハンドクリームを塗ることになるとは予想もしていなかった彼は、素っ頓狂な声を上げた。こてん、と首を傾げる名前はそんな麗にも構わず、ひと掬いしたクリームを自分の手に擦り込んでいく。そうして、もうひと掬い。麗がおずおずと差し出した手をぱっと掴むと、手の甲に人差し指を滑らせる。つう、と滑る他人の指が擽ったくてしょうがない彼は、声を出さないようにと必死である。他人に心を開くことを良しとしない麗であったが、アイドルという道に踏み出して、プロデューサー、都築、そして事務所の仲間たち、と様々な人に出会った。自分の世界だけでは奏でることは不可能なメロディーも、今の世界ならば奏でられる。麗は、そう考えるようになってから幼馴染との接し方も随分変わっていた。意識するようになったからこその弊害も勿論あったが。
指の間までしっかり塗り込んでいく名前の指先は、するすると麗の手の中に入っていく。彼の指の間に彼女の指が全て埋まった時、麗は四季の言葉を不意に思い出していた。指と指を絡ませるような繋ぎ方は、恋人同士でするものだと。



「名前!自分でするからっ……!」
「えー、せっかくだから最後までさせてよ」



逃げ出そうとした手を絡め取られてしまえば、麗はその場で固まるしかできなかった。意識を変えるだけで、ただの幼馴染も恋人候補として見えてしまうらしい。だが、麗が今求めているのは恋人ではない。自分の曲を聴いて、笑顔になって欲しいのだ。自分の変わった姿をいちばんよく知っているのはきっと、世界中で名前だと麗は思っている。届けたい音楽を自由に表現できた麗のそれは、果たして彼女の心にどう響くのか。知りたいことだった。ヴァイオリンを何度も聴いてもらったことがあるからこそ、今の自分の音楽の表情を知ってもらいたい。ハンドクリームを塗り終わった名前は、麗くんの手を乾燥から守ってくれるプレゼントと言ってそのケースを、楽譜を持っていない方の手に乗せた。



Title:さよならの惑星
Image song:Echoes My Note/神楽麗
ALICE+