思えば人魚だったのかもしれない
*女の子≠プロデューサー
海を一望できるこの家で生まれ育ったわたしは、小さい頃は毎日のように浜辺まで行って波と戯れるかのように遊んでいた。幾つか上の兄もそんなわたしについて来てくれて、二人で遊んだことも多い。ただ、年齢を重ねる度にだんだんと海に行く回数は減っていき、大学受験をする頃には海が近すぎるが故に行かないようになっていた。玄関を飛び出せば香っている潮の香りが鬱陶しいと思う朝もある。純粋に海へ近づいていた童心はどこかに置き去りにしてしまったらしい。
無事に大学に受かったわたしは残り少ない高校生としての時間を有意義なものにしようと思ったものの、何をするわけでもなく、自由登校となった高校に行っては、友達と会い、大学の学部に必要な科目を引き続き勉強していた。合間には読書を挟んだりしながら。合格通知を貰った友達の中には、登校すらしない子もいるのだから、わたしもそうしてしまおうかなと思い始めた頃のことだった。
自室の窓からは海がよく見える。早起きをして、朝日が昇ってくる様子をじっと見つめる静かな時間が昔はとても好きだった。何をするわけでもなく、ただただその様子を眺めるだけの時間を今は奇妙に思う。どうして毎日眺めて飽きなかったのだろうか。忘れてしまった心に問いかけても、答えは得ることができない。ぱちり、と目が覚めたわたしが時間を確認すれば、それは大層早い時間であり、子どもの頃は当たり前のように起きていた時間だった。馬鹿馬鹿しい、そんなことを考えながらもわたしの手はゆっくりとカーテンに伸びる。さっと引いた幕の向こうには、何の変哲もない景色が広がっている。やっぱり見過ぎて飽きてしまったのだろう。そんなことを考えながらも、窓を開けば、砂浜にぽつりと人影が見える。変わった人もいるのね、小さく呟いた言葉は昔のわたしに刺さるようだった。肘をついて、その人影をずっと見つめる。スラリとした長身の男の人のように見える。そういえば、わたしが海を見つめる頻度が一番高かったのって、中学生の時くらいだっただろうか。時が戻れば、はっきりとその頃のことを思い出せるはずなのに。
チクタクと刻む時計は、昔の記憶など掘り起こしてくれるはずもない。わたしの記憶はまるで人魚が泡になって消えてしまうみたいだ。お伽話の例えに自分で笑い始めたとき、青年がわたしの家の方角を向く。遠くからだと表情なんて分からないはずなのに、その立ち姿に変に心臓が震えた。痛い。見ず知らずの人間に何を感じてるの。ギュッとパジャマのうえから胸元を掴む。
忘れ去ったはずの記憶が息を吹き返したようにわたしの前に姿を現す。それはあの青年に重なって。さよなら、と言った小さな彼がいる。わたしたち子どもにはどうすることもできない理由がそこにはあって、それで彼とはお別れをした。わたしの目の前の、あの海で。ハッとしたわたしは、パジャマを脱ぎ捨ててクローゼットの洋服を引っ張り出すと、サンダルを履いて家を飛び出した。海を見ることで彼のことを思い出して辛くなるから、見ることは止めたんだ、わたしは。一部の鮮明な記憶の中で、彼は笑っている。その面影をわたしは確かに感じたのだ。
再び海を向いている彼の近くまで足を運んだわたしは、サンダルの足跡を砂浜に残していく。両親を困らせ、さよならの直前まで彼を困らせたわたしはずっと海に居続けていた。ようやく小さな自分の手を取ったわたしは、彼の前に立つ。人の気配を感じ取った彼は、わたしの方へ視線を集中させる。
「名前、また会えましたね」
潮の香りも、海の景色も大好きだったのはクリスがいたからだ。もう、全部思い出したよ。洋服を引っ張り出す時に、彼に貰った魚のぬいぐるみも一緒に引っ張り出して、ベッドに放り投げてきた。
「今でも、貴女は海がお好きですか?」
その質問に思いっきり頷けば、クリスは昔と変わらぬ優しい瞳でわたしを映した。その視線が、前から堪らなく好きだったけれど、心も身体も全てを奪われたような気持ちを今抱いたのは、大人になったからかもしれない。
lmage song:深層マーメイド/伊吹翼、我那覇響