
やさしい狼が牙を剥く
資料や道具を机に置いたわたしは、小さな鞄だけを持ってベッドにもたれ掛かる。映画やドラマ、漫画で見たことのあるような場面を体験した心臓がまだ落ち着いてくれない。相手が臣くんだからというのもあるだろう。
臣くんは、わたしの憧れだった。自立した人間として尊敬できる存在であると思った。勉強やサークル活動に、演劇までこなす彼はそれでも欠点ひとつ見せない。百人中百人が臣くんのことをいい人であると評価するだろう。臣くんには黙っていたけれど、わたしは実は臣くんが劇団に入ったことを聞いて、実際にその場を訪れたことがある。仲の良い友達の挑戦をこの目で見たいと思ったのだ。その時に出会ったのが臣くんたちの監督さんだ。チケットのことや、寮での臣くんの話を聞かせてもらった。どうして秋組の初回公演を観に行ったことを黙っているかというと、理由は簡単だ。遠くから見ている存在でありたかったから。憧れの人の活躍を見るだけで充分だった。わたしは鞄から手帳を取り出して、最後の方のページを目指してパラパラと捲る。距離を取っていたはずなのに、いつの間にか近い距離になっていたことに気づいて動揺したのが、まさにさっきの出来事だ。憧れという皮を被った、本当の気持ちに。友達やファンではなくて、臣くんに好意を持つ女の一人として。
臣くんに第二回公演の話を聞く前から本当は知っていたけれど、彼に少しでも喜んでもらえるように初めてという言葉を使って、嘘をついた。それに、初めて、の方が記憶に残りやすいと勝手に思ったから。秋組の初回公演は監督さんのおかげで、こっそり限定の特典も手に入れていた。それが、これだ。
「……っ、あれ?」
いつもなら、普段見たことのない臣くんが、ブロマイドで悪い顔をしているのに。わたしが挟んであった場所にブロマイドが見当たらない。寝ぼけていて別のページに挟んだのかなと確認してみるが、手帳のどこにもデューイのブロマイドがない。まさか、と自分の顔が青ざめていくのがわかる。背中に嫌な汗が流れた。思い当たるのは、臣くんの部屋しかない。物をぶちまけた時に、もちろん手帳もその中に混ざっていたはずだ。その時に落とした可能性が一番高いと考えられる。今頃、彼の手に渡っているかもしれない。どうしよう。あれを見られたら、友達になってすぐに臣くんを追っていることがバレてしまう。彼を追うエネルギーの源が友情なのか、恋慕なのかも、彼に暴かれてしまうかもしれない。そうしたら、今までの関係全てが崩れ去るようで怖い。わたしが恋慕を抱えていても、相手は違うかもしれないのだ。気づいたばかりだけど、もう充分に大きく育った芽は、簡単に摘み取られてしまう。そんなの、絶対に嫌だ。それなら、隠し通して自然と枯れていくのを待つ方が何百倍もマシなのだ。
手帳を鞄に戻したわたしは臣くんの服の端を掴むと、一気に引っ張った。洗濯して返さないと。でも、これを返したら臣くんとの繋がりが何もかも消えてしまいそうな気がした。もうこのまま、明日なんて来なければいいのに。今日進めることのできなかった課題だって、終わってしまえばそれまでだ。せっかく今日、ほんの少しだけ前に進めたと思ったのに、後退は激しい。頼りたい、それだけではない想いが自分の心の中にある。枕に顔を埋めたわたしの手には未だに臣くんの服が握られていた。
ぼんやりと一日を無駄に過ごしたその夜。お風呂から上がったところで、スマホの画面がチカチカと何かの通知を示していた。LIMEが来ているらしい。ただ、その相手が臣くんであることに気づいて、トークの画面を開くことができずにいると、彼が何かの写真を送信したことが画面に表示される。続けて、これは名前のか、と綴られる。返事をしないのもなんだか悪い気がするので、ゆっくり画面をタップすれば昼間落としたであろうデューイのブロマイドがそこにばっちりと映っていた。ああもう、これは臣くんに全部バレちゃったかな。文字を打とうとすれば、わたしより先に臣くんのメッセージが送られてくる。既読になったことで、わたしが見ていることが明らかになったのだろう。
明日、話があるんだ。いつもの講義のあと、話をしたい。話の内容はもう聞かなくてもなんとなく分かった。きっと嘘がバレちゃったんだ。臣くんは優しい人だけれど、嘘をとても嫌うタイプの人間のように見えるから幻滅されてしまったかもしれない。ブロマイドを日頃持ち歩いているなんて気持ち悪いって思われてしまったかもしれない。それとも、今日の課題の件かな。服のことかな。いろんな想像が頭の中で膨らんでは弾ける。全ては明日、決着がつくはずだ。わたしはスタンプだけを送信すると、ベッドの中に潜り込んだ。何を考えても朝はやって来るのだから、考えるだけ無駄だと思う。いっそ、当たって砕ける精神で最初から臨めばダメージも少なくて済むかもしれない。ごちゃごちゃした頭の中は整理整頓などできるはずもなく、わたしはギュッと目を閉じた。
講義が始まる直前に教室に駆け込んだ名前だったが、彼女がいつも座っている場所は既に埋まってしまっていた。ギリギリまで教室に入ろうとしなかったのは、もちろん臣と顔を合わせにくかったからである。彼女がキョロキョロと空席を探していれば、ルーズリーフを整頓している臣が彼女の視界に飛び込んでくる。昨日の出来事を思い出した彼女は、自分の身体の奥から込み上げる熱に飲み込まれてしまいそうな気分になった。その時、ちょうどスマホの振動が彼女に知らせる。俺のところ、空いてるぞ。臣の簡単なメッセージは、名前の熱を全身へと運んでいく。彼と顔を合わせ辛いと思っていたが、時間をずらしたことにより臣と同じ机に着くことになってしまったのだった。教授の姿も見えて、これはもう座るしかないと思った彼女はスマホから顔を上げる。臣のところが空いているのを確認すると、ふう、と息を吐いてそこへ歩いて行く。
名前が着席したあと、すぐに出欠確認が始まる。講義室いっぱいに詰め込まれた学生たちが名前を呼ばれるごとに返事をする。臣は、緊張した面持ちの彼女の姿を横目で見て、椅子ひとつ分距離を詰める。講義室の一番後ろを陣取っている彼らのあれこれは、誰にも分からない。彼女は突然のことに肩を揺らしたが、ほんの少しでも偏れば触れてしまいそうな臣の腕に細心の注意を払いながら、ノートや筆箱を取り出した。講義室にいる学生たちが唯一不思議に思っていたのは、名前が講義直前に駆け込んで来たことだった。いつもであれば、誰よりも早くにやって来て教授の目の前に座る彼女が、今日は一番遠くに座っているのだから。一つの机に三つの椅子が備え付けてあるが、真ん中に臣が座り、その左側に名前が座る。彼の右側には、彼らの鞄が並んで置かれている。普通、中央に鞄を置くだろうが、臣がそれをさせなかった。教授の声を聞きながら、ペンを走らせる臣はちぎったルーズリーフを名前にも見えるように寄せた。時計を身に付けた彼の手首、そして大きな手が彼女の手の近くまでやってくる。名前がノートを取る邪魔には決してならないように置かれたルーズリーフに、臣が文字を綴る。今日の教授は雑談が多い人で度々脱線するため、余裕があるのだ。
カタカナで書かれる役名、そしてブロマイドという文字。嘘をつくのも限界であった彼女は、臣の問い掛けに答えるように自分の所持品であることを伝えた。それね、わたしの。その文字を見た臣が、右手に持っていたペンを置く。触れそうで触れない場所にあった左手が、名前の手首を捕まえる。その瞬間に彼女は臣の方を見る。今日、まだ一度もきちんと顔を合わせていなかった彼らの目がようやく合った。力の入った臣の左手は、彼女の手を離してくれることはない。梔子色の瞳も、同様に逃がさないと言っているようだった。銃口を心臓に突きつけられ、後は引き金を引くだけ。舞台上で見たことのあるデューイが一瞬見えた彼女は、狼狽えることしかできない。教授の雑談や、学生たちの笑い声など二人の耳には届かない。釣り上げられた眉がだんだんと下がり、その姿はいつもの伏見臣へと戻っていく。白い歯が見え、奥に隠された暗い赤が光を浴びて、ルージュを塗ったかのような赤を彼女が見たとき、臣の口の形が変わる。講義室の一番後ろ側で、声にならない言葉が消えていく。
ハッとした顔を見せた臣は、名前の手を放すと、先程まで使っていたペンを右手に持って教授の方を向き直す。伝えるつもりのなかったはずの言葉を思わず零してしまった自分に気づいたのだった。彼女を見たら自然と、口が動いていた。名前は、臣の口の動きから言葉を受け取っていたが、答え合わせはできない。臣の伝えたかった言葉と食い違っている可能性も否めないが、都合良く解釈してしまいたいと思った。彼女も臣と同じように、講義内容に戻ってきた教授を見やる。黒板に殴り書きされたチョークの白があまりにも眩しい。うつらうつらとしている学生の姿、真剣に話を聞く学生の姿を目に入れながら、さっきの臣を何度も頭の中で再生する。だが、分からない。昨日から全く分からなくなってしまったのだ。デューイのブロマイドを返してもらえることだけは確かなことではあったが。