一等星を探してる


講義室から出て行く人々を眺めて、名前はぼんやりとしていた。臣に触れられてからというもの、全くといって教授の話が頭に入ってこなかったのである。爪が揃えられて綺麗に手入れされている臣の指先がグッと食い込み、まるで毒を注入されたかのようだった。すっかり甘い毒の回った手首に痺れを感じていた。同時に額、頬、首元と熱くなった部分が冷めることを知らない。ついに頭までフラフラとしてきた頃、講義室には彼女と臣だけが残されていた。臣は、鞄を漁ると彼女の前にデューイのブロマイドを差し出す。ふしみおみ、彼からは想像もできない可愛らしい平仮名でサインの入ったブロマイドは、名前にとって肌身離さずに持っていなければ落ち着かないものになっていた。彼女もまた鞄から手帳を取り出すために、臣に鞄を取って欲しいに声を出したつもりだった。自然と臣を頼っていることに、彼女は気づかない。だが、彼女は咳き込み、言葉は放たれることがなかった。手を伸ばす彼女を見た臣はその意を汲み取り、名前に鞄を渡したが、違和感を覚える。礼の代わりに吐き出された息の熱さに、おかしいと感じた臣は彼女の首や額を触診した。何の抵抗もしない彼女は手帳にブロマイドを挟むと、今日の目標を達成したとばかりに、気力が抜けたのか臣へと身体を預ける。突然、寄ってきた彼女の身体を受け止めた彼は違和感に納得がいく。今の今まで気付けなかったことに悪いと思いながら、机の荷物を素早く片付けると、彼女の頭をゆっくりと撫でた。肩で息をするような名前に、帰れるか、と囁くほどに優しい声色で話しかける。ゆっくりと頷いて立ち上がる彼女を支えながら、全ての荷物を引き受けた臣は名前のペースに合わせて動き始めた。
大学を出るまで好奇の目に晒されていたが、名前は周りを気にするほどの気力が残っていないらしく、自分のことで精一杯だった。なるべく体力を消耗させまいと、タクシーを捕まえた臣は荷物を先に車に乗せると、名前をひょいっと抱き上げて乗り込む。迫ってきている公演の稽古もあるため、このまま彼女の家に向かっても夕方までしか面倒を見ることはできない。寮に連れ帰ることも一瞬浮かんだものの、彼女がゆっくりと休めないと思ったためにその選択肢は早くから消されていた。LIMEを飛ばす臣は、隣で唸る彼女の頭を撫でたあと、行き場のないままになっている手をそっと握る。学生組と秋組は頼むことができない。となれば、残った劇団員で彼女を任せることができるのは。臣の判断で選ばれた人物からはすぐに連絡が返ってきた。
名前の鞄から取り出した鍵で扉を開けた臣は、小さくお邪魔しますと零すと、その場に座り込んでしまいそうな彼女を再度抱き上げて、部屋の奥へと進んで行った。机に並べられた厚い本や教養系のドリルは彼の想像通りであったが、彼女のベッドの周りの光景は予想外であった。寝床を囲むようにしてたくさんのぬいぐるみが飾られている。薄い色のシーツに彼女を下ろして、傍に畳まれて置いてあった部屋着を名前に渡す。それから、臣は冷蔵庫の中身を確認する。ヨーグルトやゼリーは彼女が好んでいるのか、たくさんストックがあるようだった。足りない物を先程と同じ人物にLIMEした臣は、ベッドへと戻る。今まで着ていた服を脱ぎ散らかした名前が部屋着で寝転んでいる。相当キツかったんだろうな、ごめんな、臣は彼女の一番上のボタンを留めた。水を飲ませたあと、枕に頭がくるように体勢を整えてやった彼は、ベッドにもたれかかるようにして座り込む。もしかしたら、自分が彼女を追い込んでしまっていたのかもしれない。そんなことをぼんやりと考え始める。くるりと振り返ってみると、顔色は相変わらずよくないが、今までよりも穏やかな表情の彼女がいて、臣の心は落ち着いていく。まずは体調を整えることが先決である。彼は通知音の鳴るスマホを開いて、稽古の時間が迫ってきていることを確認すると、まだ少し寝息の整わない彼女の頬に触れる。それはもう、割れてしまいそうなガラス玉に触れるかのように。大きな手は簡単に彼女の顔を覆ってしまえそうであった。ほんのり汗を掻いている額をタオルで拭き取って、臣は身体を起こす。ベッドに寄り掛かるように、肘を彼女の顔の近くにつくと、顔を近づけた。しばらく間を置いたあと、彼は立ち上がる。おやすみ、その言葉は空気に溶けて消えていった。







ベタベタして気持ち悪い。目を開けた瞬間に思ったことだった。朝起きた時によく見る景色がそこに広がっていて、わたしはゆっくり身体を起こした。家だと分かっていても、ここどこ、と言葉が自然に零れる。ふと掛け時計に目をやれば、六時を示していた。外を確認しようにもカーテンが既に引かれていて、分からない。ただ、オレンジ色の光が隙間から差してきているところを見ると、どうやら夕方らしかった。臣くんと隣で講義を受けて、ブロマイドを受け取ったところまで記憶は明瞭だったけれど、その後が抜け落ちているようで思い出せない。



「おや、目が覚めた?」
「……ふ、冬組の!雪白東!」
「ふふ、ボクのことを知っているなら話は早いな。名前ちゃん」
「え、えっと、なんで雪白さんが」
「東、でいいよ」



舞台を見た時から雪景色の似合う男の人だとは思っていたけれど、間近で見てますますそう思った。透き通った白い肌が雪に溶け込んでしまいそう。臣くんの所属している劇団の人とはいえ、なぜわたしの家にいるのか分からない。混乱しているのが表情に出ていたようで、東さんは静かに笑ったあと、事情を説明してくれた。途中、わたしのスマホが何度か鳴ると、東さんが取ってくれた。画面に表示された通知には、画像が送信されましたと書いてある。ニコニコする彼をチラリと見ながら、画面をタップすれば、臣くんの大量の写真が画面いっぱいに表示されて思わずスマホを床に落とした。大きな音を立てて落ちたスマホの中では、カメラ目線の臣くん、盗撮されたであろう料理中の臣くんが並んでいる。カズに頼んだよ、とウィンクを飛ばす東さんは本当に心臓に悪い。ところで、カズって誰のことだろう。



「臣は稽古があるから、代わりにボクがね」
「……は、はい」
「ねえ、名前ちゃん。ボクでよければ、話聞くよ。臣が話してくれないなら、名前ちゃんに聞くしかないからね」



普段だったら大丈夫です、と真っ先に飛び出るはずの言葉はわたしの中に存在しなかった。熱で浮かされてしまっているのだろうか。いつも通りの自分ではないみたいで、また変な気持ちに襲われた。臣くんが頼っていいって言ったけれど、こればかりは本人に話すことができないのだ。だからといって、臣くんが信頼を置いている東さんに相談してもいいのだろうか。モゴモゴと口を動かしていると、人差し指を顎に当てた東さんが魔女のように囁いてくる。細められた瞳がわたしの本心を見透かしているような気がした。



「名前ちゃんは、臣にどうして欲しいの?」



もはや、わたしの気持ちは臣くんに頼りたいだけではないのだ。充分にそれは自分でも分かっている。ただ、その先を望んでしまうことが臣くんには迷惑だとずっと思ってきた。臣くんは友達としての親切心から、頼っていいと言ったはず。それに何度も自分で繰り返してきたけれど、わたしの頼りたいには恋慕の情が少なからず含まれていて、一人だけの結論は既に出ているのだ。わたしが風邪をひいたりしなければ、臣くんときちんと話をして、二人で本当の結論が出せていたかもしれない。そして、気になるのは講義中の臣くんの言葉だ。
わたしの熱を吸収したせいで、乾燥しきった冷えピタが剥がれて落ちていく。東さんはわたしの言葉を待っているようで、何も言わない。彼の後ろに見える鞄からは臣くんの服が見えていた。そういえば、今日洗濯した物を返すはずだったのに。



「……もう、答えが出てる顔してる、けどね」
「だ、大丈夫、です」
「臣がお粥作ってくれてるから、それ食べて早く寝ようね」



東さんは結局わたしの言葉を待たずに、台所へと行ってしまった。その後ろ姿を見て、じわじわと込み上げてくる熱いものはすぐに頬を伝って流れていく。どこまでも優しくしてくれる臣くん。わたしのことを気に掛けてくれる臣くん。舞台で頑張る臣くん。伏見臣という男の人に、そばにいてほしい。全てはただそれだけだったのだ。
そういえば、と言って東さんは小さな鞄からチケットを取り出す。名前ちゃんがお願いしてた物でしょ。わたしの前に差し出されたチケットは確かに、監督さんに直接頼んだチケットだった。千秋楽の日を確保して欲しいと頼んだら、快く了承してくれた。受け取ったチケットを、傍に置いてあったチケットケースに入れると、東さんが持って来たお粥を口にする。東さんが適当な温度に調節してくれたのだろうか、丁度いい温度だ。口にする度に、臣くんの姿が浮かぶ。名前を呼んでくれる臣くんに、胸がまた一段と熱くなって、お粥が一瞬飲み込めなかった。
ALICE+