
幕はまだ下りない
「臣。名前ちゃん、お粥食べさせて寝かせてきたよ」
「東さん突然すみませんでした。助かります」
「……ねえ、臣。臣はもう前に進んでいるんでしょ?そんなに躊躇うことないとボクは思うよ」
稽古場から談話室に移動した臣の前には、ティーカップに口をつける東の姿があった。細く長い指が、温かい陶器に触れている。ふう、と息を吐き出す姿は魔女の甘い吐息といったところだろうか。
臣たち秋組の稽古も仕上がってきており、初演もすぐそこまで迫って来ている。臣は、東に頭を下げながら、稽古中にあった出来事を思い返していた。自分がここに立っているのは、いろんな人の支えがあること、自分の背中を押してくれる存在があること、きちんと噛み砕いて飲み込むことができたのだ。東の指摘は最もである。
「名前ちゃん、寝る前にも臣のブロマイド見てたよ」
「いや、あれはデューイで」
「ううん、あの瞳は臣を見てた」
チケットのことや写真のことについては言わないでおこう、と東は思いながら底にうっすら色の残るティーカップを台所に持って行き、蛇口を捻る。眉間に皺を寄せて、難しい顔をする臣の唸り声を掻き消すように水が勢いよく音を立てた。写真を撮るのがもはや日常になっている一成から大量に送られてくる臣の写真を、そのまま彼女に流した時の表情といったら。東は思い出し笑いを堪えることができなかった。
タオルを首に引っ掛けた臣は、秋組の面々が風呂場へ直行するのを見やると、バルコニーへと足を運んだ。風邪で弱っている時はさすがに強がろうとしない彼女の姿を見た時、そばにいてやりたいなという気持ちが顔を覗かせていたことを分かっていた。バルコニーに吹き付ける風に、臣の髪がそっと揺れる。タオルを首から引っ張った彼は、スマホを取り出しながら手摺りに背中を預ける。名前の連絡先を開いて、着信ボタンを押そうか数秒迷った挙句、臣の指は虚しく空を切る。起こすのは悪い、でも、確認は取りたい。LIMEの画面を開いた臣は、大丈夫かという意を込めてスタンプを押す。送信されたことを確認する音が鳴って、臣は写真モードへと画面を切り替える。そういえば、名前の写真を撮ったことがないな。満月が見守る下、臣は呟く。劇団員の日常を不定期に撮影してサイトにアップするのは、一成と臣の仕事だ。一成は割とよく撮影をしているが、一方の臣はというと、最近は写真を撮ることをサークル以外ではしなくなっていた。秋組の稽古が忙しいのもあるが、なんとなく写真を撮ることに気分が乗らないのである。
「千秋楽が終わったら」
臣は拳を握りしめる。自分自身のことも、名前のこともきちんと自分の中で昇華できる気がしていた。まずは迫ってきている初演の日を乗り越えることが先決だ。臣ひとりのせいで舞台を悪くするのは絶対に嫌だった。彼は、返事がないことを分かっていながら、那智、と空の向こうへ呼びかけるように名前を呼ぶ。風と共に流れていく雲が、月を一瞬隠す。だが、すぐに姿を現す満月は、今まで見上げた月の中で一番美しいと思えるのだった。
千秋楽の公演日。すっかり体調の戻っていた名前は、劇場へと足を運んでいた。風邪をこじらせた初日の臣と東の献身的な看病により、体調が良くなるのに時間はそう要さなかった。大学も次の日から毎日きちんと通い、いつも通りの毎日を過ごしている。ただ、その中に臣はいない。講義室で互いに姿を見かけても、名前も臣も話をすることはなかった。公演期間中に迷惑をかけることを彼女は避けたかったのである。それがたった何日間か続いただけで、心に穴が空いたような気持ちになった彼女は、家に帰り着く度に溜め息を吐いている。だが、それも今日で終わりだと名前は強く思った。千秋楽が終われば、臣も落ち着くだろう。そこで、延ばし延ばしになったままの話をきちんとせねばならないと思っていたのである。
劇場の中は既に客でいっぱいで、その中には東の姿や別の組の人間、いづみの姿も確認できた。名前はチケットに書かれた席を探す。チケットを目にした時に、舞台にかなり近い場所だとは思っていたが、予想以上に近い席になんだか力が抜けてしまいそうだった。小さな鞄を膝に抱いて、舞台の上を見やる。演じている間は気づかれることはないだろうが、最後の挨拶では見つけられてしまいそうな場所だと彼女は思った。臣くん、心の中で呟く名前はチケットを軽く握りしめる。
幕が上がった先にいたのは、デューイとはまた違う顔をした伏見臣だった。今回の役の名はヴォルフというらしい。普段の臣には似合わないほどに固い響きの名前だが、役に入り込んだ彼の姿は名前に負けないものだった。ヴォルフという名に、何か思い入れがあるようにも感じさせる。名前が勉強を教えている太一が準主演であり、彼ら二人で話が動いていく。よく見知った二人が、舞台の上で別の顔をして観客を魅了することは彼女に不思議な気分をもたらす。まるで、近いはずなのに、遠い存在であることを知らしめるかのように。十座や万里も、言葉を交わした仲ではあるが、住んでいる世界が違う人間だと思わせるようだった。
幕が一旦下り、ひとしきり拍手を送ったあと、名前は今日の限定ブロマイドをデューイの上に重ねるように挟み込む。デューイという役を経たヴォルフの伏見臣を見て、彼女は口を緩める。その瞬間に、演者たちが舞台へと姿を現し、ゆっくりと明るくなるその場で臣がありがとうございました、と最初に頭を下げる。どんな衣装を着ていても、彼の本質が不変のものであることが声色からよく分かった。顔を上げた臣と、視線が絡んだ気がしたのはまさにその時である。風のないはずの劇場内に二人だけを通り抜けた風はあたたかく、やさしかった。
「監督さん!」
「名前ちゃん!今日は来てくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ良い席を用意してもらって……」
「え?チケットの席を選んだのは私じゃないけど」
「ど、どういうことですか……?東さんがわたしに監督さんからって」
「あの席に、って言ったのは」
「名前」
終演後、客を見送るいづみに話しかけた名前は、てっきり席も彼女が選んだものだと思っていた。チケットを直接頼んだ相手であるし、そうだと思い込んでいたのだから。衣装のまま、突然彼女の前に姿を現した臣は名前に小さな紙切れを渡すと、その場をすぐに離れ、来場者を見送る方へと戻って行った。久しぶりに紡がれる名前は彼女の身体を震わせる。たった一瞬だけ臣が触れた指先が、とても熱くなっていることに気づいた名前はいづみに頭を下げると、劇場を後にする。
そそくさと歩きながら、紙を広げると臣の字が狭い紙面いっぱいに書かれている。それだけで、黒インクの字がじわりと滲んでいく。一週間後の夜、家で待っていて欲しい。どうしてこの日なのか、という疑問は名前に浮かびなどしなかった。臣のことを待っていて良い、その事実だけが胸を締め付けるのだった。