
しあわせのことば
親や女友達だけしか使ったことのない敷布団のセットとは別に、新品のセットがあったのでそれを引っ張り出してきた。臣くんはいつも使っているのでいいと言ってくれたが、特別だからこそ新品を使って欲しかった。特別、っていい響きだから。テーブルを端に動かして、わたしのベッドのすぐ隣に布団を敷く。臣くんには少し布団が小さかったようで、足がはみ出している。ごめんね、と謝ればよくあることだからと返された。
電気を消したわたしはベッドに寝転がると、毛布を被った。男の人と密室で二人きり、しかも一緒に寝るなんて初めてのことだ。ベッド分の段差を乗り越えれば、すぐそこに臣くんが寝ている。そう思うと、ぱっちりと開いた瞼は早々閉じるはずもなく、しばらくわたしはまばたきを繰り返していた。
「名前、起きてるか」
「うん」
「さっきは怖かったよな。ごめん。また、怖がらせたな」
「……怖くないよ。ちょっと、びっくりしただけ」
「そうか」
シーツと毛布の擦れる音が静かに響く。臣くんは今、どんな顔をしているのだろうか。わたしは自分の胸にそっと手を当ててみる。寝る前だとは思えないくらいにいつもより早い鼓動が伝わってくる。臣くんと言葉を交わしても、無性に寂しいのはなんでだろう。ドキドキして心臓が痛いのに、もっと近づきたいと思ってしまうのはなんでだろう。破裂しちゃってもいいや、なんて思い始めている自分に気づく。身体をすっと起こすと、毛布と枕を持って、ベッドから下りた。
暗闇でもすっかり目の慣れていたわたしは、臣くんの腕にそっと身を寄せる。間の抜けたような声が耳元で聞こえた。がっちりとしていることは見るだけで分かっていたけれど、触ってみて初めて分かることもある。
「……名前、ベッドで寝ような」
臣くんの言葉を無視するように、ぐっと身体を更に彼に寄せた時だった。バッと捲れた毛布がわたしの上を舞ったかと思えば、身体が布団に縫い付けられていた。指の合間に、臣くんのゴツゴツした指が通って、布団にくっついている。
「名前、俺のことなんて思ってるんだ?」
「伏見臣」
「それはそうだけどな」
「やさしい、ひと」
「でも、男なんだぞ」
言われなくても分かっている。分かっているからこそ、わたしは今こうやって臣くんの布団に潜り込もうとしたのだ。彼の溜め息が顔に思いっきり掛かる。歯磨き粉の匂いは、完全に場違いだ。甘い香りのいちご。可愛らしいイメージを与えるものだけど、視線を散らかして歯を覗かせる臣くんは一瞬にして化けた。香りを掻き消すようにして、わたしに押し付けられたくちびるがとても熱い。キスをしていると脳がきちんと理解して、わたしの瞳からボロボロと涙が零れた。くっついたり離れたりを短いスパンで繰り返す臣くんが、器用に涙を拭ってくれる。目をギュッと瞑ったままのわたしには、彼が今どんな表情を浮かべているかなんて分からないけれど、くちびるに当たる熱から気持ちだけは流れ込んでくるようだった。
名前を呼ばれ、少し口を開いたところでわたしの物ではない異物が口内へと侵入してくる。生温いそれは、意志を持った生き物のように動き回る。ペロリ、と舐められる感触はまるで自分がアイスクリームにでもなった気分だった。押し付けられるのはもはや、くちびるだけでない。彼の身体全体がわたしに伸し掛ってきている。真っ暗な部屋の中で響き渡る水音と、臣くんの息遣いだけがわたしの脳を支配していた。
「……名前」
「う、うん」
「今日はここまで」
「……えっ」
「いろいろと準備不足だから、な」
その言葉の先を察したわたしは、目を開く。少し安心した自分がそこにいた。臣くんはきっと身体だけでなく、精神的な面も気にかけてくれている。階段を上るように少しずつステップを踏む方がわたしに合っていることも、見透かされてしまったのだろうか。横になった臣くんはわたしに背を向ける。そんな彼の大きな背中を掴むように、服を引っ張った。前のわたしだったら、絶対にしなかったことなのに。
「朝帰りしたら、なんて言われるかな」
「……わたしのせいにしていいよ」
「いや、共犯だしな」
臣くんが笑っているせいで、わたしの手が揺れる。その時、くるりと向きを変えた彼とばっちり目が合った。急に動いた身体に驚いて手を離したけれど、次に捕まったのはわたしの方だ。臣くんの瞳がじっとわたしを見ている。布団の擦れる音が身体を強張らせるけれど、わたしの口から零れた言葉は今の素直な気持ちだった。そうか、と瞳を細めた臣くんはゆっくりと目を瞑る。わたしもそれを追いかけるようにして、瞳を閉じた。真っ暗な世界の中で、彼の言葉だけが聞こえてくる。もう、他の音なんて何も入ってこない。寄せ合った身体は、中心からポカポカとした物が湧きあがってきて広がっていく。わたしの知らなかったことを教えてくれるのは、いつでも臣くんだった。