オーバーチュアをもう一度


真っ黒な燕尾服に身を包んだ男の人が、わたしの視界を遮るように立っている。燕尾服といえば、格式が高いというイメージだ。映画では見たことがあっても、実際に着ている人を目にするのは初めてで、思わず口元を押さえる。やっぱり身長があって、スタイルの良い人には似合う衣装なんだなあと。シャンデリアの光で、顔はよく見えない。爪先から頭のてっぺんまで見ようと思って、足を一歩引けば、コツンとヒールが音を立てる。相手の前に、自分の爪先を眺めれば、ピンクの紐が何重にも括りつけられたようなデザインのハイヒールを履いていることに気づいた。それに、ハイヒールとセットなのか、ドレスも可愛らしいピンク色の花々が心狭しと咲いているようなものである。一体、この世界は。辺りを見渡しても、知っている顔は見えない。ただただ、わたしの前にずっと立っている男の人と二人きりだ。豪華な装飾はお伽話で読むようなお城を思わせる。とりあえず、出口を探そうと走り始めるわたしは慣れない高さのヒールを響かせながら、都会の街など微塵も知らない田舎娘のようにキョロキョロと辺りを見回す。



「お嬢さん」
「大丈夫です!」



根拠のない大丈夫を吐き出したわたしは、その場から三歩程進んだところで、声を掛けてきた人物に振り返った。シャンデリアの下にいるのは、先程の燕尾服の男の人だ。本当にここには誰もいないのだろうか。勢いで大丈夫だと言ってしまったけれど、本当は大丈夫なんて言えないのだ。まず頼ることができるのは、この人しかいない。行く先を変更して、燕尾服の男の人の元へ向かうわたしは、ハッと気づく。これは夢の中なのではないかと。どうしてこんな夢を見ることになっているのか、見当は付かないけれど、現実離れしたこの世界は間違いなく夢だ。両方の頬を親指と人差し指で抓りながら歩いていると、途端に笑い声が聞こえてくる。人に見られていることを思い出したわたしは、ひとつ咳払いをして歩き続けた。



「お嬢さん?」
「あの……頼っていいですか」



すんなり出てきた言葉に自分でも驚いていると、目の前の彼が再び笑い出す。随分と余裕そうなこの人に聞けば、解決策が生まれるだろう。なんて勝手に安心していると、声がもうひとつ。そちらは、わたしの名前を何度も何度も呼んでいる。まばたきをすれば、燕尾服の彼はわたしの手を取った。よく知った感触に、寝る前のことが甦ってくる。臣くん、小さく呟けば、目の前の彼ともう一人の声が重なってわたしのことを、名前と呼んだ。







「名前」



一人暮らしの家で、他人の声がするなんて。それにお味噌汁の香りがわたしの瞼に誘いかけてくる。早く起きて食べにおいでよ、とばかりに。目を開けば、わたしの視界いっぱいに臣くんの顔が広がっていて思い切り悲鳴を上げた。今のは傷つくなあ、そう呟いた臣くんが寝起きのわたしの髪の毛を手櫛で整えてくれる。前髪が揃ったところで、急に立ち上がったわたしに驚いた彼の表情を見ながら、洗面所へと駆け込む。一人で出来ることなんだから、そこまでしなくても。心の中で叫んだ言葉を臣くんはきっと知らない。確かに頼らせて欲しいとは思ったけど、今みたいに甘やかされるのはダメ。これは自分でやることだと、鏡の中の自分と対話しながら櫛を一心に動かした。
臣くんのところに戻ると、わたしがさっきまで寝転んでいた場所にあった布団は綺麗に畳まれ、テーブルが元の位置に戻ってきていた。そうだ、昨夜、臣くんと布団を共に。思い返しただけで、テーブルに並べられたお味噌汁に負けないくらい湯気が出そう。慌てて横に顔を振っていると、臣くんが台所と冷蔵庫の中身を借りたぞと言ってその場に座った。おもてなしをするのはどう考えてもわたしの方なのに、今朝起きてから何もかもを臣くんに任せてしまっている。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。わたしがちゃんとしないといけないことなのに。ごめんなさい、と言おうと臣くんに顔を向けると、彼がわたしの眉間を突く。



「俺がしたかっただけだから」
「でも……!」
「ほら、こういう時は素直に甘えていいんだぞ。名前が一人で全部しようなんか思う必要はどこにもない」
「……う」



臣くんは昨夜から強気だ。わたしの考え方など、お見通しとばかりに言葉を掛けてくる。わたしが言い返せないように言葉をチョイスしているのは、きっと彼の計算だ。逃げ道を塞いだことに満足したであろう臣くんは、片手で自身の首を何度か撫でた後、少し困ったような表情を浮かべる。その顔を見たわたしは、テーブルの上を再度眺めた。臣くんの料理はお皿に盛り付けられていて、お茶の注がれたコップもある。あ、と声を上げると彼は忘れてたなあ、とワザとらしく言った。全ての用意をしなかったのは、わたしが何も手伝わなかったという気持ちに苛まれるのを避けようとしたからだろうか。臣くんって、優しすぎて毎日気を遣っていそうだ。
台所に行ったわたしは、棚を開いてある事に気づく。そういえば、この間お気に入りの箸を折ってしまったのだ。これでは一人分しかない。どうしよう、とその場でグルグル回っていると、戻ってこないわたしを心配したのか臣くんが隣にやって来ていた。



「臣くん……お箸、一膳しかない、です」
「いいよ、名前がそれ使って。俺は後で」



大学で過ごしている時も同じことを思ったことがある。臣くんは何かと自分を後回しにするような言い方をするのだ。いつまでも人に頼らなかったわたしが言うのもなんだけど、そこは臣くんのよろしくないところだと思う。来客用にとっておいた割り箸がなかったかな、と彼を無視しながら探し続けていると、手に紙の感触がした。これ、割り箸の余りだ。そう思って、掴み上げると、寿司を注文した時に付いてきた割り箸だった。



「臣くんはもっと、自分を大切にして」



臣くんは誰にでも優しい。わたしだって、何度も救われてきた。心まで奪われてしまった。でも、彼自身をもっと優先すべき瞬間だって、今までも、そしてこれからもあるはず。いつも支える役でなくとも、一番前に立って皆をグイグイ引っ張る中心的な存在にもなれることをこの前の公演が教えてくれた。臣くんはあの時、どういう経緯で主演を引き受けたのだろうか。
ごめん、と小さく呟いた臣くんにお箸を渡して、わたしたちはテーブルへと戻った。両手を合わせていただきますと言えば、臣くんが嬉しそうにどうぞと返してくれる。わたしがお箸でお米をひとくち分摘んだところで、彼も真似するように同じような行動を取る。そっと置かれたお茶碗に、臣くんのひとくちって大違いだと思っていると彼は口を開く。



「名前、今日」
「課題だよね。任せてください!遅れは取り戻してみせるから」
「……それもそうなんだが」



歯切れの悪い臣くんは、何か言いにくいことでもあるのだろう。思い当たることといえば、彼が課題に必要な物を持っていないことくらいだけど、それは別に深刻ではない。取りに行けば済むことだ。近くの図書館も開いているはずだし、大学の空き教室で作業するのも悪くないと思う。予定よりも随分遅れているけれど、わたしと臣くんなら空いていた時間も埋められる。長時間に渡る戦いになるとはいえ、彼がいれば頑張れる気がするし、それを口実に一緒にいる時間だって増やせる。すっかり、臣くんに絆されてしまっている自分に戸惑いを覚えた。



「俺と一緒に、寮に来て欲しい。みんなが心配してくれたから、きちんと報告をしたいんだ」



朝帰りだと言われてもおかしくない、この状況。昨夜、確かにわたしのせいにしていいとは言ったけれど、わたしも巻き込んでの朝帰り。一体、何を言われることやら。大学生ともなると一人暮らしの家に男女が一晩なんて、盛り上がる話のひとつだ。格好の餌に間違いない。根掘り葉掘り聞かれる様子を想像して、昨夜のことをぽつぽつと思い出す。一線は越えていないものの、臣くんと同じ布団で寝た。キスもした。ついでに言うと、今朝、臣くんに起こされるまで変な夢も見た。
それに、臣くんを帰らせなかったことを監督さんたちに怒られるかもしれない。大事な大事な劇団員の一人である伏見臣を一夜、独り占めしていたのだから。恥ずかしさと共に不安にも襲われて、相当おかしい表情をしていたらしく、今度は臣くんが笑い始めた。俺もいるよ、大丈夫だ。そんな風に声を掛けてくれたけれど、わたしはすっかりご飯が喉を通らなくなっていた。服装はどうしよう、手土産を持っていくべきだよね、最初の言葉はどうしよう。やっぱり、謝罪が一番だよね。



「こらこら、百面相してないで朝ご飯食べてしまおうな」



集中出来なくなったのは、確実に臣くんのせいである。色々考えている間に、彼のお茶碗やお椀の中身は見事になくなっていた。全てを持って台所へ行く臣くんを見送ると、すぐに水道の蛇口を捻る音が聞こえ、勢いの良い水音が共に音楽を奏でる。時折、キュッと高い音も鳴る。
監督さんと秋組の学生三人と、同じ大学の後輩である綴くんと、最後にお邪魔した時に出会った春組の至さんと、風邪の看病をしてくれた冬組の東さん。わたしを見て、どう思うだろうか。いくら臣くんが傍にいるとはいえ、絶対に言いたいこともあるはず。考え事ばかりが積み重なって、この後また臣くんに早く朝食を終わらせるように言われるのだった。
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