
少しみえたの、きみの瞳の向こうが
大きな背中を視界に捉えながら、わたしは玄関に立っていた。寮に向かう途中で臣くんが何度も、大丈夫だからと言ってくれたけれど、不安と緊張がまるで身体に巻き付いたように外れてくれない。絞め殺されてしまいそうだ。いくら念入りに化粧をして、綺麗な洋服で着飾ったとしても心までは騙せない。
臣くんはノブに手を掛けているが、一向に開かない。それはきっと、わたしを気遣ってのことだろう。この寮に足を踏み入れるのは初めてではないのに、臣くんとの関係が変化してから何もかもが新鮮で、だけど少し怖いのだ。わたしは劇団員さんたち、そして監督さんに何を言われるのだろうか。いつも親切にしてくれていた人たちに泥棒猫だなんて思われないだろうか。大事な劇団員を誑かして一晩帰さないなんて、何を考えているのか、と。幻滅されてしまうことが、この人は信用出来ないと思われてしまうのが何よりも怖かった。人から頼られることを嬉しく思うわたしだからこそだ。
大きく息を吐いたわたしの前に立っている臣くんが、ゆっくり扉を開く。ただいま。いつも通りの彼の声の調子に安心したのも束の間、奥からドタドタと騒がしい足音に、男の人たちの声が聞こえてくる。その中には女の人の声も交じっていて、一発で監督さんだと分かった。わたしが引き止めたせいで、帰ってこない臣くんを心配していたに違いない。どうしよう、顔を合わせてなんと言えばいいの。
玄関に颯爽と現れたのは太一くんだ。まんまるの瞳に閉じ込められたわたしは、頭を下げて彼を視界から外した。家庭教師のようなつもりで接している太一くんの第一声は、わたしの名前。条件反射で顔をパッと上げれば、両手を天井に向かって思いっきり伸ばす彼がいた。ぴょんぴょんと跳ねる側で、臣くんが照れくさそうに後頭部を掻いている。続いてやってくる劇団員さんたちも、代わる代わる臣くんに声を掛けていた。その中をすり抜けてやってきたのは監督さんだ。
「名前ちゃん」
「ご、ご無沙汰しています、監督さん!あっ、あの、劇団の大事な伏見臣さんを」
「……ふふっ」
「名前サン、監督先生は別に怒ってるわけじゃないッス」
「太一くんの言う通りだよ」
満面の笑みを浮かべている監督さんと太一くんの前に出てきたのは、臣くんと同じ組の古市さんだ。眼光が鋭く刺さる。眼鏡の奥から、凄まじい圧を感じて思わず怖気づいてしまうのだった。監督さんが怒っていなくても、古市さんはお怒りなのではないだろうか。眼鏡に触れたあと、腕組みをして仁王立ちだ。舞台の上とはまた違った恐ろしさが溢れ出ている。臣くんは他の劇団員さんたちと話をしているから、助けを求めることは出来ない。いや、ここは助けてもらっちゃダメだ。頼ることを覚えても、それに甘んじてはいけない場面だってある。臣くんとの交際は遅かれ早かれ、この劇団員さんたちには知れることなのだから、きちんと話をしていた方が良いに決まっている。
「伏見の女か」
「……古市さん」
「いいか。ここにいる奴らは生半可な気持ちで芝居をやってるわけじゃねぇ。いくら、お前が伏見の女だろうが、芝居の邪魔は許さないからな。だが、アイツの支えになれるとも知っている。くれぐれも問題は起こすなよ」
「左京さん、あんなに臣くんのこと心配してたくせにー!」
「うるせぇ。監督さんは黙ってろ」
お芝居が臣くんにとってどのくらい大切な物なのか、まだわたしは表面上しか知らない。舞台の上でキラキラ輝く彼の姿からしか、その気持ちを受け取ることが出来ていない。きっと、古市さんたちはわたしよりも随分深く、臣くんのお芝居に対する気持ちを知っている。だからこそ、あんな言葉が出るのだと思った。
お芝居の邪魔になるようなことは、絶対にしません。言葉にするのは誰にでも出来ることだからこそ、信用には値しないと思う。じゃあ、古市さんに信頼を預けてもらえるようになるにはどうしたらいいのか。わたしは彼の前に進み出ると、丁寧なお辞儀を心掛けてゆっくりと頭を下げた。
「もし、わたしが邪魔になっている時は遠慮なく切ってください。臣くん……臣さんの邪魔になるような女にはなりたくありません」
「……いい心掛けだ。遠慮なくいかせてもらうからな、肝に銘じておけ」
玄関の床も見ることが出来なかったわたしは、目に力を思いっきり入れて瞑っていた。すると、古市さんの声が聞こえた後にポンと頭に何か感触が走った。監督さんの顔を上げてという言葉に素直に応じれば、わたしに触れている手は古市さんのものだとすぐに分かった。目元にあるホクロがとてもセクシーで、そこに目を奪われてしまう。一瞬だけ笑みを浮かべた彼はわたしの元を去って行く。スタートは認めてもらえたのかなと思うと、急に足の力が入らなくなって、その場でぺたりと座り込んでしまう。靴を脱いだ一歩先の場所は、とても重たいもので、だけど温かいところだった。
「左京くんは、臣の背中を押した一人だよ」
「東さん……」
わたしの隣にしゃがみ込んだのは、看病をしてくれた以来、顔を合わせていなかった東さんだった。あの時はありがとうございました、お礼の言葉をすぐさま口にすれば、彼は臣くんの名前を呼んだ。臣、これからどうするの。名前ちゃん、歩けなくなっちゃってるけど。悪戯っぽく笑う彼はどこか楽しそうだった。
東さんと反対にやって来た臣くんがありがとな、と言ってわたしに両手を差し伸べてくる。お礼を言いたいのはこっちだよ、臣くん。心の中で呟くと、臣くんに大丈夫だからという意味で両手を振った。古市さんの勢いに呑まれてしまっただけだ。東さんの指摘は大袈裟だから。
わたしの身体がふわっと持ち上がる。あれ、わたし今、臣くんに気にしないでというつもりで両手を伸ばしたのに。すっかり力の抜けたわたしは劇団員さんたちを見下ろすような形になっていた。春組の咲也くんと夏組の椋くんが二人揃って、自分の両手を合わせて感嘆の声を上げる。
「ったく、臣」
「うん?名前は歩けないんだぞ」
「……っあー、早く行け行け」
緊張と不安の噛み痕が身体中に残っていたけれど、それを忘れるくらいには恥ずかしさが勝っていた。今すぐに両手で顔を覆ってしまいたい。けれど、両手は臣くんの身体に触れていないと落ちそうで怖い。葛藤が始まる。そんなわたしの視界に入ってくる、頭を押さえている万里くんの気持ち、分かる気がする。臣くんは無意識でこういうことをする人だ。突然発揮される謎の天然っぷりには振り回されたり、押し切られたりする。太一くんはしばらく別の部屋に滞在するらしく、ごゆっくりなんてニシシと笑いながら言ってくる。
わたしを抱えたまま、臣くんは部屋への道を歩き出す。わたしたちの間に会話はない。ただ、臣くんの足取りが軽いことはなんとなく気づいていた。わたしと古市さんの会話、どのくらい聞いていたのだろうか。それに、感謝の言葉の意味は。勇気のいる台詞だったから、聞かれていたら恥ずかしい。でも、古市さんの言葉は最もだ。頼ってもいい、甘えてもいい、そう言われたとしても自分の限界ギリギリまでは頑張る。臣くんには余計な迷惑を掛けたくない。彼には常に、お芝居を一番でいて欲しい。それがわたしの知る、伏見臣という人だから。
部屋のドアが開かれる。入り口でふと思い出したのは、課題をするために訪れた日のことだった。鍵かけたの、俺なんだ。あの行為の真意を尋ねることは出来ず、流したままだったが、今思い返せば臣くんがわたしと距離を詰めようとしてきたのではなかったのだろうか。変に頭が回る。こんなところで女の勘は必要ないというのに。ちょっと躓いて、だとか、バランスを取ろうとして、なんて言ったのはただの言い訳に過ぎないのではないか。
わたしを床にそっと下ろした臣くんは、課題をするための準備を始めていた。ノートパソコン、ホッチキスで纏められた資料、文献、ノート、ボールペン。机の上に手際良く並べられていく様子を見ながら、わたしはひとりで探偵ごっこでもやっている気分になった。頭の中で、ドアと臣くんに挟み込まれた自分を客観的に見つめる。こんな状況、漫画やドラマでしか見たことがない。
不意に呼ばれた名前に反応して、そちらを向けば臣くんが少し驚いたような顔をしてから目を細める。眉毛が垂れた表情は柔らかくて、わたしは思わず目を逸らしそうになった。でも、逸らせないのは臣くんが俺のことを見てと言ったからだ。そこで、わたしたちは昨晩のように、ひとつ、キスをした。