泡のように消えた選択肢


「臣クン、勉強教えて欲しいッス」
「左京さんや紬さんはどうした?」
「二人とも忙しそうで、今日は無理って……」
「うーん」
「至サンはゲームに忙しいって断られたッス」
「……そうだ、太一。いい家庭教師がいるぞ。ちょっと待っててくれ」
「はいッス!」



部屋に駆け込んできたのは太一だ。劇団の中でも弟のように可愛がられている。だが、勉強が苦手なのだ。俺が教えるのもいいが、紬さんのように教えるのが上手いわけではない。そこで、俺が頼ろうとしているのはもちろん彼女だ。電話をかけると、名前は家でゴロゴロしているとのことだったので、急遽、太一の家庭教師を頼むことにした。幸いなことに家も近いしな。電話を切ると、女の子の声がしたッス、と嬉しそうな太一が俺の周りをぐるぐると駆け回る。少しは落ち着けとばかりに彼の頭をわしゃわしゃと撫でてから、寮の外で太一と一緒に到着を待った。



「どんな子ッスか?」
「そうだなあ、十座と左京さんみたいに」
「えっ、ヤンキーとヤクザ……」
「はは、そうじゃなくて真面目って意味だよ。喋る雰囲気は紬さんに近いかな」
「カワイイ?カワイイお姉さんッスか!?」
「うーん、俺は可愛いと思うけど、太一の好みかはわからないなあ」
「もしタイプのお姉さんだったら、どうしよう……」
「あ、来たぞ。名前、こっちだ!」



太一の想像する可愛い、の定義がよく分からないが、家庭教師としては最適だと思う。人に教えるのが上手いというのは大学の中でもよく聞く良い噂のひとつだ。でも、彼女が友達に教えてもらっている姿は見かけたことがない。彼女は行き詰まった時、どうやって解決しているのだろうか。教授に直接質問するか。それもあり得るが、もし教授が捕まらない時はどうしているのだろうか。手を振って、こちらへゆっくりと歩いてくる名前の様子をじっと見つめる太一は何も言わない。観察モードに入っているな、これは。
いろいろ準備してたら遅くなっちゃった、ごめんね。そう言った彼女の手には、高校の参考書が何冊もある。それは必要ないと思うぞと言いたかったが、あまりにも気合いが入っている名前にさすがに言えなかった。太一くん、ってこの子ね、自分よりも背の高い太一を見上げながらまばたきを何度かする名前は、片手で参考書を抱えると、片方の手を太一の頬に伸ばした。突然のことにびっくりした太一はその場に固まってしまっている。



「もちもちだー!さすが現役高校生」
「名前、太一が固まってる」
「緊張しなくていいよ。君よりも年上の若くない女って思ったらいいから」
「……っ、あの、俺、七尾太一です!よよよ、よろしくお願いします!あ、あと、お姉さんは綺麗ッス!」
「臣くん……この子めちゃくちゃいい子だね。この前言ってた、十座くんも見たい」
「ああ、十座も今日は会えると思うぞ」



平均的な身長の名前は、少し屈んだ太一の頭を撫で回す。太一が撫でられる光景は何度か見るが、真っ赤になっている姿を見るのは新鮮だった。いつもは撫でられている間も口は休まないのに、名前に撫でられている間はびっくりする程に静かだ。これには万里も驚くだろうな。
名前を俺と太一の部屋に案内する途中、物珍しそうに寮の中を観察するものだから少しくすぐったい気持ちになった。個性的な人間が集まっている寮は、普通でないところがいくつかあるのだ。床に三角が散らばっていたり、少女漫画の棚がいくつもあったり、酒の保管庫があったり、盆栽が置いてあったり、絵画や詩が壁に掛けられていたり。まるで未知の世界を探検している気分だと名前は言った。だが、太一の家庭教師を始めた瞬間には消えてしまったようだった。



「太一くんはどこが分からないの?」
「こ、ここッス!」
「……これは基本のところかなあ」
「名前、何か飲みたい物や食べたい物はあるか?」
「あ、臣くん。大丈夫、わたしのことは気にしないで。好きで教えに来たんだから」
「そ、そうか……」
「名前サン!頑張るからよろしくお願いするッス」
「太一くんめっちゃいい子だよ……臣くん、持って帰りたい」
「名前サンのお家に!?」
「こらこら、太一、それは冗談だから」



太一と名前を部屋に残した俺は、もはや定位置となりつつある台所に立っていた。彼女は遠慮しすぎだ。もう少し人を頼ったり、甘えてもバチは当たらないと思う。前々から思っていたことだったが、ここ最近で本当にそう感じる。きっと、今まで自分で何でもやってきて、それが当たり前になってきているんだろうな。昔のクセって、すぐ抜けるものじゃないしな。他人を嫌っているとか、信じられないわけではなくて、彼女には最初からその選択肢が存在しないのだろう。人に頼れないって、辛いこともあるだろう。俺だって、主演に決まってからいろんな人に助けられたし、何度も頼ってきた。座長として皆を引っ張るのは当たり前だが、上に立つものが全てを背負うわけではなくて、色んな人を頼ることも大切なことだと改めて思ったのだ。名前も、なんだか俺みたいなところがあるのかもしれない。
簡単な菓子を作った俺が部屋に戻ると、太一は嬉しそうに尻尾を振る犬のようだった。問題が解けて、彼女に褒めてもらっているらしい。名前は人から褒められることはあっても、今の太一のような褒められ方って、あまり経験がなさそうだ。褒められても、これは当たり前のことだから、なんて返すだろう。簡単に想像ができて思わず笑ってしまった。



「臣クンー、名前サン、めっちゃ教えるの上手いッス!」
「よかった。俺の人選は間違ってなかったな」
「あの、名前サン」
「んー?」
「も、もし、よかったらまた来て欲しいなー、なんて……」
「時間が空いていたらいいよ。わたしも勉強になるし」
「え、ホントに!?嬉しいッス!」
「太一の勉強も順調だし、ちょっと休憩したらどうだ。スコーン作ってきたぞ」
「……臣くんの手作り?」
「ああ」
「監督さんが言ってたスコーンってこれか……」
「え、名前サン、監督先生と知り合い?」
「うん。話をしただけだけど。あっ、臣くん、十座くんに会わせて」
「スコーン、十座も食べるだろうし、呼んでくるな」
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