萌動


タンスから引っ張り出してきた服を持った俺は、脱衣所のドアを叩く。すると、すぐに彼女の声が返ってくる。ちゃんと温まったのかと問いかけると、臣くんはお母さんじゃないでしょ、と返ってくる。続けて、わたしは子どもじゃないからと。思わず零れた笑い声を名前に聞かれないようにしながら、俺は少し開いたドアから伸びてくる手に自分の服を渡す。服はほぼ濡れてしまっているようだが、幸いにも下着類は無事だという報告を聞いて、少しほっとした。これ以上は今、寮にいる人間だけでは対処しかねるのだ。カントクが帰ってこないことには。
談話室で資料を読む綴のノートパソコンを覗き込むと、当たり前だが、俺たちとは違った課題のようだった。学部が違うだけで、こんなにも違いが出るのは面白いところだと思う。自分たちの飲み物も含めて、綴の分を用意しようかと台所へ立つと、談話室の扉が開く。名前かと思ったが、姿を現したのは至さんだ。



「……葉大の組だけ?」
「ああ、はい。学生組以外は、カントクと演劇を観に行ってます」
「ふーん」
「至さんまた徹夜っすか」
「当たり前。臣、何か食べ物あるー?」
「至さんの分、取ってあるんで」
「さすが臣」



椅子に座った至さんは温め直したパンを千切っては、口の中に放り込んでいく。休日の前の日は高確率で徹夜であることを寮の皆はよく知っている。特に春組とカントクは至さんとの付き合いが一番長いため、彼の生活リズムを把握済みだ。すると、至さんの口からパンの欠片が零れて、元々の塊が乗っかっている皿へと戻っていく。マジか。驚いた表情の彼と連なるようにして、言葉にならない声を上げたのは綴だ。
臣くん、いますか。覇気のない声で俺の名前を呼んだ名前は談話室のドアをゆっくり開けると、どこか居心地悪そうに綴の近くのソファーに座った。面白い物でも見るかのようにニヤニヤとする至さんが俺の方を見ている。飲み物をそういえば渡していなかったなと思って、彼の分を差し出すと、先程の言葉を繰り返された。さすが臣。本日二回目の言葉だ。綴に用意した飲み物は、パソコンより少し離れたところに置く。



「あったまったか?」
「……うん」
「ホットココアを作ったんだ。これを飲んでから、課題をしよう。荷物、部屋にもう持って行ったぞ」
「は、はーい」







「ちょっと、綴」
「なんすか……」
「どういうこと?」
「俺が聞きたいですよ」



名前を連れて行った臣が談話室から姿を消したあと、至と綴は顔を見合わせる。綴は今朝からずっと、臣の行動の意図が読めずにいるのである。彼氏と彼女の関係であれば、別に何も思うことはないのだが、彼らはそのような甘い関係ではない。ただ、大学の同じ学部で、仲の良い友人である。臣が隠しているわけではないだろうし、名前の反応を見ても、綴や至には彼らが恋人に到底見えなかった。当たり前のことを当たり前にしている、臣はそんな感じなのだ。部屋に二人きり、男の服を着せる。課題に集中しようとする綴の耳には、至の憶測が次々と流れ込んでくる。まさかそのまま、と彼が呟いたところで綴が勢いよく立ち上がる。



「至さん!」
「男と女が二人きりで何もないわけが」
「……もう俺、大学行きます」
「待ってよ、綴。俺だけがあの二人とこの寮にいるってハードすぎない?無理ゲーだから!」
「俺は講義あるんで!」
「……もう絶対部屋から出ない。籠城する」







部屋に通した名前は、クッションにぺたりと座り込むとホットココアのカップに口を寄せる。ある程度冷めているだろうし、飲める温度にはなっているはずだ。そう思いながら、俺は自分のカップに手を伸ばす。飲み物が喉を通っていく音だけが部屋の中を支配した。一時的な土砂降りで済んだ空は、さっきとは打って変わって快晴だ。本当に名前はタイミングが悪かったんだな。窓から彼女に目を移す。両手で大切そうにカップを持っている様子は、小さな子の面倒を見ているような気になる。これを名前に言うと、また頬を膨らませることは間違いないので口には出さないようにする。
それにしても、自分の服を他の誰かが着ているのを見るのは新鮮だ。ここの劇団で服の貸し借りはあまりしない。実家にいる時は小さくなった服を弟たちにあげることは度々あったけれど。まさか自分の服を貸すのが、異性が最初だなんてなあ。袖も丈も長いようで、半袖がまるで七分袖のようになってしまっている。肩幅も俺が圧倒的に大きいので、片方の肩からずり落ちてしまいそうだ。チラリ、と見えるピンクの紐とは二度目の対面になったが、見て見ぬフリをするしかない。それとも、首や肩に掛けられるタオルでも持って来た方がいいのだろうか。うーん、と唸っていると彼女が、飲み干したカップをテーブルに置く。



「ねえ、臣くん……」
「うん?なんだ」
「臣くんってさ」



語尾に近づくにつれて消えていく声のせいで、最後何を言っているのか分からなかった。名前の顔があまりにも真っ赤なものだから、ココアとお風呂で温まりすぎたのかと首を傾げながら、もう一度言って欲しいと頼めば、別に何もないですと敬語で返される。彼女が敬語で返す時は大体何か含みがあるのだが、俺にはそれを見抜けない。
課題をやっている間に彼女の服も乾くだろうし、そろそろ課題に手を付けようと資料を漁り出す俺の手を名前が掴む。小さな手は、いとも簡単に俺の動きを止めてしまう。急に触れられた別の熱にどこか浮かされてしまいそうな気分になりつつも、彼女の方を見やれば、思ったよりも距離が近くて息が掛かった。



「……わたし、臣くんのせいで」
「俺の?」
「臣くんのせいで、変になっちゃうじゃん……」



自分で纏めてきたであろうプリントの束を片手でテーブルに叩きつけながら、反対の手は依然として俺の腕を掴んだままだ。変になっちゃう、とはどういう意味なのか。それを問い掛けたところで彼女から答えが貰えるとは思えなかったが、何よりも名前はそれどころではない様相であることは間違いない。少しでも落ち着けるように、空いている方の手を彼女の背中に伸ばそうとすれば、名前は一瞬にして身体を引っ込める。距離を取られた俺の手は虚しく空を切る。



「臣くんはいつもいつも優しくしてくれて、甘やかそうとするから、わたしがダメになっちゃう。一人でなんとかなることも、臣くんが一緒にいたら……!」
「名前、落ち着いてくれ」
「だからね、臣くんがっ、いたら……わたし、一人で出来るはずのことも出来なくなりそうなの!だから、そんなに優しくしないで!変なの、嫌なの、自分がおかしいの……っ、でも臣くんと一緒にいるのは決して嫌なことじゃないの。やだよ、もうわかんない」



ボロボロと大粒の涙を零し出した彼女は、両手で顔を覆うと溢れる涙を何度も何度も拭う。名前が一人で出来ると思っていることを支えてあげるのは、面倒見が良いとよく言われることもあり、そのところから来ているのだとずっと思っている。どこか放っておけない彼女の助けになってあげたい。立派で強くて、優しくて。皆をいつでも助けてくれる彼女。だからこそ、少しくらい弱い姿を見せて欲しいと思っていたのだ。資料や、俺の服を濡らす名前をもう一度じっくり見て確信する。一人で熟せる彼女を甘やかすこともできるような存在になりたいとずっと思っていたのだ。頑張っている彼女の姿に惹かれ始めたのは、いつのことなのだろうか。
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