
白日の下の晒し者たち
「名前は立派な子だよ。いつも自分一人でなんでも出来る。それは凄いことだ」
「……違う、わたしは」
「でも、一人で頑張り過ぎたら、そのうち壊れてしまう時が来る。抱え込んだ思いを吐き出すところだって必要だ」
「……っ」
「俺は、名前にはそうなってほしくない。だから、俺が少しでも名前の頼れるところであればいいと思った」
「わたしは……」
「名前、お願いだから、俺の前では弱い姿も見せてくれ。いつもなんて言わない。どうしようもなくなる前に、ちょっとだけでもいい。そんな面だって、名前の一部だろ」
一人で出来る。それは親からも教師からもずっと褒められてきたことだった。勉強にしたって、任された仕事だって。辛いことも勿論あったけれど、自分は一人で出来る子なんだと言い聞かせてきた。それに、自分のことが終われば、周りの人を助けてあげる。感謝の言葉を貰うのがひどく嬉しかった。立派な一人の人間であるためには、弱音を捨てなければならない。いつ、いかなる時も、みっともない姿を晒すことは許されない。誰かの助けや支えがなくても、大丈夫。そう、大丈夫はもう口癖になっていた。大丈夫でないと分かっていても、周りには大丈夫の一言で通してきた。
高校を卒業して大学に入学した時に出会ったのは、伏見臣という男だった。彼は強面だが、とても柔らかい人で温かみに溢れている。人当たりもいいし、真面目な人でもあるので、わたしが仲良くなるのには時間はかからなかった。ただ、わたしのやる事に対して何かと理由を付けて手を差し伸べたり、わたしのことを甘やかしそうになる面は本当に苦手だった。自分が作り上げた人間像を脅かされそうになるからである。ある程度の距離を保っていても、すっと入って来てしまう臣くんにわたしはいつからだったか、流されそうになっている自分に気づいた。このまま彼に負けてしまったら、どうしたらいいか分からなくなる。だから、変になる、と思った。
「名前」
優しくしてくれる臣くんが嫌なわけではない。甘やかしてくれる臣くんが嫌いなわけではない。本当はずっと分かっていた。ただ、自分が今までにない姿に変えられそうで単純に怖がっていただけなのだ。臣くんの優しさに甘えることがあっても、自分という人間を確立していればそう簡単に壊れることのないことを充分に理解していた。だけど、わたしは甘え方を知らないの。弱い姿を見せたとして、助けてくれるであろう臣くんにどう接したらいいのか。結局は完璧主義者であろうとするもう一人の自分と戦っていただけだ。
「ほら、今、思っていることをそのまま言ってみたらどうかな」
距離を詰めてくる臣くんから逃げようだなんて、もう思えなかった。わたしの思いを聞いてもらっても幻滅しないと言われたようだったから。目の前にいる彼は、わたしが完璧な人間でなくても認めてくれる人なんだ。
「もし、一人で頑張れない時は、臣くんに……」
「うん」
「……臣くんに」
頼っても、いいですか。敬語を交えてはいたが、今のわたしの精一杯の言葉だった。人を頼ろうとしない。人に甘える選択肢なんて持っていなかったわたしから零れたこの言葉に、ゆっくりと頷いた臣くんは優しく笑う。もちろんだ。臣くんを慕う人たちはきっと、彼のこういうところが好きなんだろうな。おせっかいなくらいに世話焼きで、優しくて、頼りがいのある、しっかりした男の人。いつだったか、臣くんに出来すぎた人間だと言ったことがある。わたしの妬みもひょっとしたら含まれていたかもしれない。でも、臣くんは静かに首を振ると痛々しい表情を見せた。後にも先にも、そんな臣くんの表情を見たのはその時だけだ。
わたしの腕を掴む臣くんに、ぐいっと引っ張られる。慰めてくれるにしてもやり過ぎだと思ったけれど、彼の中で普通なのかもしれない。大きな身体に抱きしめられたまま、背中を撫でられる。子どもに戻ったような感覚だった。とても小さい頃は、両親もこんな風にしてくれたことがあったっけ。自然と溢れ出てくる涙は止まらない。涙が枯れる、なんて言葉を知らないようだった。
もう大丈夫だよ。手鏡を見て思わず笑ってしまった。真っ赤に腫れ上がった瞼に笑いが出てしまうくらいには、余裕が戻ってきていた。臣くんはそうか、と言うと部屋を出て行く。あの後、臣くんは気が済むまで泣いたわたしにずっと付き合ってくれた。人に頼って、気持ちが軽くなることを早速身に沁みるように感じた。
ただ、臣くんのせいで気づいてしまったことは他にもある。女とは違う、ガタイの良い体格に、今まであまり意識してこなかった低い声。大きな手。友達であっても、異性である。すぐに戻って来た臣くんの手には、わたしの着ていた服が丁寧に畳まれている。雨に濡れてからすっかり忘れていたけれど、実は昨日鏡の前で散々悩んでいたのだ。どうして悩んでいたのか、心にすとんと落ちる答えが導き出される。臣くんに可愛いとか似合うって思って欲しいと、無意識に思っていたに違いなかった。つまり、わたしは。
「お、臣くん、着替えたら帰るね……!」
「え?まだ課題が」
「ううん、今日はもういいの。それに焦らなくても大丈夫だから!ね!」
部屋借りるから、と半ば無理矢理に臣くんを部屋の外に追い出すと、そそくさと着替え始めたわたしは脱いだ彼の服に顔を埋める。これくらい許してね。だって、貸してくれたのは臣くんだもん。洗剤の匂いにほんのり交じっているのは、男の人の匂いだろうか。臣くんってこんな匂いなのかな。
臣くんに着替えたことを伝えると、スマホを弄りながら彼が部屋に入ってくる。ガチャと何かの音がして、ふと顔を上げた臣くんがわたしに向かって手を伸ばしてきたものだから、驚いたわたしはかなり距離を取るように後ろへ下がる。身体にトンとぶつかるのは、ベッドの一部だった。それが臣くんのベッドであることはよく知っている。彼から距離を空けたのは良かったのだが、予想外のことが起こってしまった。服と同じような匂いがして、ぐるぐると回り出す頭の中を悟られないように必死で平常通りに振る舞う。
「あっ、あの、臣くんこれ洗って返すからね!じゃあ、お邪魔しました!」
両手で掻き集めるように荷物を纏めた後、深々と礼をすると臣くんの隣をすり抜けていくように早足でドアに向かう。せっかく部屋で課題をしようと誘ってくれた彼には申し訳なさもあったけれど、それよりも早くこの火照っている自分の身体を静めたかった。このタイミングで、抱いていた感情に名前を付けてしまったわたしが悪いのだけれど。ノブを回して出て行こうとしたわたしは、思いっきりおでこを衝突させる。勢いが良すぎて、ドアを開けるよりも早く身体が動いてしまったみたいだった。自虐にも似た笑いが思わず零れたが、気を取り直してドアノブを回す。けれど、ドアは一向に開かない。
そんな時、わたしの後ろから伸びてきた筋肉質の二本の腕がドンと音を立てる。思わず息を呑んだわたしの手元から、全ての荷物が散らばり落ちる。臣くんの服も、資料も、筆箱も、貴重品を入れてある小さな鞄も、全部。ごめん、鍵かけたの、俺なんだ。臣くんの低い声がとても近くで聞こえた。