02

「……名前ちゃん」



学生の時に呼んだ名前を久しぶりに紡ぐ翼の表情は、強張っていた。まるで口にしてはならない言葉を発したようである。ブランコを漕ぐことを止めた名前は地にスニーカーを静かにつけると、もう一度、翼の名前を呼んだ。随分と彼らの間に時は流れていたものの、互いに存在を忘れたわけではなかったらしい。翼は自分の名前を呼ばれたことに安堵し、彼女の隣のブランコに腰掛ける。微妙な距離感を保った彼らは、相手の様子を伺った。
子ども用のブランコには大きすぎる身体は、狭いとばかりに主張しており、思わず彼女は口元を押さえて笑みを隠す。学生の時からも大きな身長ではあったが、久々再会をした名前は翼の身長がまた伸びていることを知った。
横顔を眺める翼は、時折吹く風によって見え隠れする名前の耳を見たり、学生の時の彼女の幼い横顔とは違うことを改めて感じていた。昔から相変わらずなのは、姿勢が良いことだった。品の良さが漂う彼女を、遠くから見つめたことが何度あったことか。今も変わらぬそれに、瞳を奪われてしまうようだった。
公園には大人二人がぽつん、とまるで切り取られた空間が出来上がる。夜も遅い時間で、子どもたちの姿がないのは当たり前のことではあるが、大人の姿も彼ら以外には見当たらなかった。約十年ぶりに顔を合わせた翼と名前の間の会話は続きそうにないと互いに思っており、なかなか話は弾まない。というか、どのような話題を提供すればいいのかが分からないのだ。ブランコの鎖をぎゅっと握った翼は、意を決して話しかける。まずは当たり障りのない内容から、と自分に言い聞かせて。



「久しぶり。元気だった?」



こくり、と頷く名前は翼の方を見る。座ってもあまり縮まらない目線の高さの違いに戸惑っていた。机を挟んで椅子に座っていたときは、目線も今ほど差はなかったはずなのだ。昔よりも、もう少し見上げてみれば、その優しい瞳が名前を見据える。瞳の優しさ、穏やかな雰囲気、温かい口調。それは変わっていないらしい。オレも元気だったよ、と言う翼をじっと見つめていれば、彼らの目線は突然交わらなくなる。翼が照れに負けて逸らしたからであった。



「ご、ごめんね……あの、名前ちゃんが昔と変わったから」



一瞬目線を逸らしつつも、昔よりも大人っぽくて綺麗になったね、と翼は言う。彼女に戻ってきた瞳を細めて笑う彼は、お世辞というものを覚えたらしい。名前も言い返そうとしたものの、彼女の言いたい事はお世辞ではないのだ。彼女の本音である。どちらかというと可愛い印象が大きかったのに、こんなに恰好よくなっちゃって。喉に詰まったように言葉にはならない。名前は、翼の言葉に対して首を振る。すると、翼はお世辞なんかじゃないよ、と言う。同じことを思っていることを知った名前は、自分の座っているブランコをほんの少しだけ後ろに引く。



「翼くんも、恰好よくなっててびっくりした」
「……え!」
「お世辞なんかじゃ、ないよ」
「そっか。ありがとう」



彼女の顔が見たくて、翼も同じように後ろにブランコを引くと、名前はゆっくりと漕ぎ出す。それはまるで、顔を見ないで欲しいと言わんばかりだった。先程までじっと顔を見られていた翼はあまりにも不平等だと思ったが、恥ずかしがり屋の彼女のことを思うと深追いはできなかった。元の位置に戻したあと、彼女のブランコが奏でる音に耳を澄ませる。そうして、手に握っていたままの林檎飴の存在をふと思い出し、どこか締まりのない顔の前に持ってくる。ここで再会できたのは偶然かもしれない。もうこんな機会は巡ってこないかもしれない。キイ、と音を立てて止まるブランコを確認した後に、翼は真っ直ぐ向き直すと、林檎飴を握った手を彼女の前に差し出した。



「あの時は、本当にごめん」



零れた言葉は、昔伝えられなかったものだった。本来ならば、もっと早くに伝えるべき言葉であることを翼自身は充分に理解していたのだが、その言葉を発してしまえば今度こそ本当に彼女との繋がりを断ち切ってしまうのではないかと一人怯えていたのである。学生時代の友達を頼れば、彼女との接触はできたのかもしれない。だが、その勇気がどうしても翼は持てなかった。何よりも傷ついた彼女を見るのが恐ろしくて堪らないのである。今だって、言葉を発することはできても、隣の名前の表情を見ることはできずにいた。
翼の林檎飴を握る手に、そっと添えられたのは名前の手であった。ハッとした翼はそのまま、隣を向く。今までずっと目を背けてきたことに正面から向き合った瞬間であった。次に、ごめんね、と口を開いたのは名前だった。林檎飴を受け取った彼女の瞳から、一筋の涙が流れゆく。彼女の溢れ出た涙を拭うことができない翼は、自分自身のその手を恨むように睨みつけた。



「あれは、翼くんのせいじゃない」
「……でも!」
「わたしのせい」
「いいや、オレも」
「……じゃあ、二人のせい?」



林檎飴の袋を膝上に乗せた名前は、両手で零れた涙を掬うように拭った。軽く擦れたのか、目元が赤くなっている。翼は一旦唇を噛み締めてから、言葉を交わす。謝罪をしたかったのはどうやら翼だけではないらしい。名前も、自然消滅した原因は自分にあると思っていたようだった。話の中で明言はしなかったものの、互いにそう思っていることが分かった二人は顔を見合わせる。
ブランコから立ち上がった彼女は、林檎飴を大切そうに鞄に仕舞うと翼に手を振った。過去のことは綺麗さっぱり清算できた、そう言いたげな表情である。心の中を整頓したことですっきりしたのは翼も同じだったが、ひとつだけ彼らに食い違っている部分があった。翼は勢いよくブランコから立ち上がると、名前の名前を呼ぶ。くるりと振り返った彼女はどこか苦しげな表情をしていて、翼はその足を踏み出すことに一瞬躊躇いを覚えたが、このままではまた同じことを繰り返すだけだと自分に喝を入れる。



「電話番号!まだ、変わってない?」
「う、うん……前と一緒だけど」
「あの、オレと」



連絡先を登録した名前と睨めっこした時間はなんだったのか。翼はスマホをポケットから取り出して、お守りとばかりに力を入れて握った。彼は、大きく深呼吸をすると突然電話番号の変更を聞かれて先が読めずにいる彼女に向かって、口を開く。



「よかったら、ご飯に行きませんか!」
「……ご飯」
「嫌だったら断ってくれていいから」
「翼くんこそ、いいの?」
「オレが誘ってるんだよ」
「……いつ?」
「そのための電話だよ」



林檎飴を受け取ってくれた時から、自分が拒否されているわけではないことに確信を持っていた翼は彼女の前まで歩いてきていた。身長差のある二人の影が、近くにある砂場まで伸びているのは公園の煌々とした灯りのせいである。翼の勢いに押されたのか、名前は連絡を待ってるね、と小さく零す。本当は物凄く嬉しいのだが、表面にそれを出さないように必死だった。彼女の中でまた顔を覗かせる感情に気づかないフリをするためだからだ。うん、と翼はその場でぴょんと跳ねる。
別れ際に翼に手をもう一度振ってくれた名前の姿はまるで学生のようで変わっていないなと彼は思い、その姿に手を振り返した。付き合っていた頃を思い出させる彼女の姿に、少し苦いものを感じながら。

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