03

電話番号の並びを何度も見返した翼は大きく息を吐き、その画面に指を突き立てる。ほんの少し触れれば良いというのに、勢いの良さは彼の指に衝撃を走らせた。
仕事から帰ってきて、落ち着かない様子で部屋の中をぐるぐると歩き回っていた翼はというと、つい先日昔の彼女と遭遇したのだった。彼女との思い出の花火大会は、プロデューサーと輝、薫と行ったものよりも随分こじんまりとしたもので、屋台の数も花火の規模も比べ物にならない。だが、林檎飴を自分の手に持った時、確かに心の奥に閉じ込められていた光景がそれこそ花火のように開かれた。名前に林檎飴を握らせたことも記憶の欠片を組み合わせれば、ひとつの絵として描かれる。真っ赤な林檎の向こうにある彼女の横顔を盗み見した、中学生のひと夏だ。
翼は画面を覗き込んで、窓にそっと空いた手を当てる。自身がラフな服装と共にガラスに映った。だが、自分の表情を見るのがとても怖く、それは叶わないまま、首元まで目を動かしてからもう一度画面に戻す。その瞬間に遠慮がちなボリュームで、もしもしと聞こえてきたため、翼は耳元へとスマホを移動させた。
電話越しの彼女の声を聞いたのは、何年ぶりのことだろうか。中学の卒業式が終わって、初めて携帯という物を買ってもらった二人は、すぐさま互いに電話番号を交換した。それでも彼らを冷やかす周りの声は止まない。この時点で既に彼らの繋がりは離れつつあったのだが、互いに恋人である、いや、そうでなければならないという気持ちに動かされていた。自然と惹かれあったはずであったのに、義務のように二人を苦しめている。自然消滅の原因は外にも、内にも存在したようだ。
電話番号を使ったのは、数える程しかなかった。あの頃の翼に、電話での繋がりはまだあるのだから、自然に消えていくそれを見ているだけではダメだと言ってやりたい。今の彼はそう思うばかりだ。名前の声が翼の名を紡ぐ。電話をしているという現実に引き戻された彼は早速、用件を切り出すのであった。



「突然ごめんね。今度、夜ご飯でもどうかなって思って」
「うん、いいよ。いつかな?」
「ありがとう……!」



あまりにも普通通りに流れる会話に、どこか引っ掛かるような物を感じる翼は窓に付けたままの手をズルズルと下ろしていく。ひんやりとした感触に、指先が震えた。いつも通りが心地良いものではないのか。変だと翼は首を傾げながら、話を続ける。
日時についても彼の提案が通って、予定を取り付けるまでに三分も要していなかった。用件だけの電話にするつもりだったが、それにしては早すぎる。咄嗟に、翼は彼女に仕事の話題を振った。同じユニットのこと、事務所のこと、プロデューサーのこと。ひっきりなしに翼が喋る。それが相当おかしかったようで、途中で電話口から笑い声が漏れ始めた。えっ、気の抜けたような翼の声で会話が途切れてしまう。笑う場面なんてないと思っていた彼は、途端に黙り込む。すると、彼女がアイドルの活動がとても楽しいんだね、そう言った。すっと入ってきた言葉にうん、と答えた翼はもう一度日時の確認をする。またね、その言葉を最後に電話越しの声が聞こえなくなる。
翼はスマホを充電器に繋ぐと、ベッドに思いっきり倒れ込んだ。約束を取り付けた自分がまるで初デートに誘えた男子のように思えて、笑い出す。彼女の笑いが伝染したのかと思うくらいに、しばらく笑い続けた。
ひとしきり笑い終えたあと、枕に顔を押し付ける。待ち合わせ場所に来た彼女をどこの店に連れて行こうか、頭の中で今まで訪れたことのある店を思い出す。翼としては、たくさんの量を提供してくれるところがありがたいのだが、名前を連れて行くとなれば、その条件だけで考えることは出来なかった。
充電器に繋いだばかりで、ほとんど充電がなされていないスマホをコードから引き抜くと、枕から片目だけを覗かせて、指で操作を始める。翼は検索画面に、二つのキーワードを入力する。ディナー、おすすめ、と並んだ。予測変換で現れた三つ目のキーワードに、彼の指は止まってしまう。



「名前ちゃんは……」



友達、最初に出てきたワードをタッチしようとして留まってしまったのは、次の予測変換に恋人という文字が見えたからであった。もちろん、翼にとって名前はもう恋人ではない。それは間違いなく、真実だ。だが、友達の枠かと問われると翼は素直に頷けずにいる。もう友達の関係だというのに、その枠から彼女を外そう、その枠に彼女を入れたくないと抵抗している自分がそこにいたのだ。正確に言うと、元恋人という関係なのだが、彼女の振る舞いからして翼のことを既に昔の恋人で、今は友達だと見ているのは明らかなことである。電話を切りたくない、その思いで必死に会話を続けたのはまだ彼女のことを追いかけてしまっているからだ。翼は、唸りながらも店の検索を再開する。残り少ない電池のせいで、画面は節電モードに切り替わり、いつもよりも暗くなっていた。







大人になった二人が訪れた店には、もちろん酒も置かれていた。翼も名前も、ご飯と共にそれぞれ酒を頼む。見かけによらず、度数の高い酒を注文した彼女に翼は少し驚いていたが、名前は翼の頼む料理の数に笑顔を見せた。
翼が選んだ店は、街中から少し外れた静かな場所にある店だった。といっても、駅は近くにあり、交通に関して不便のないところである。これは翼の配慮だ。帰りに困らないようにと。
酒の注がれたグラスをカツンと合わせる。居酒屋のように周りが騒がしいわけでもないので、個室にいる二人は互いに小さく乾杯の声を上げた。冷たい酒を流し込んだ翼は、グラスにくちびるを付ける彼女をじっと見つめる。名前は酒とグラスに意識を集中させているようで、彼の熱視線には全く気付かない。そっと開かれたくちびるの隙間に侵入していく薄い色の酒は、彼女を色っぽく魅せた。くちびるの離れたグラスには、ほんのりと口を付けた跡が残っていることが分かる。口紅だろう。



「今日は誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう」
「翼くんはやっぱりたくさん食べるんだね。変わってない」



運ばれてきた料理の量は圧倒的に翼の方が多い。注文の時点で分かっていたことだが、やはり並べてみると圧巻だった。サラダを小皿に取り分けた名前は、レタスやトマトの盛り付けられたそれに、彼女の頼んでいた唐揚げを二つ乗せる。おまけ、と悪戯っぽく笑う名前はとても楽しそうだ。キラキラと瞳を輝かせながら皿を受け取った翼の姿は、給食時間に見ていた小さな翼と重なって名前に映る。食べる前に量を増やし、おかわりをする彼を思い出させた。
名前の頼んだ二杯目も度数の高い物で、さすがに翼が声を掛けた。しかし、彼女は大丈夫と言って、その酒も飲み干してしまうのだった。一度に飲む量は多くないものの、酒を口にする頻度が高いので、翼よりも結果的に早いペースになっているのだ。彼は間にたくさんの料理を挟んでいるからか、そこまで酔いも回っていないように見える。三杯目の途中で、他愛のない話をしていたところに切り込むように彼女が口を開いた。



「ねえ、翼くん」
「名前ちゃん……?」
「ちょっとだけ」



言葉の後にジェスチャーをする彼女は、翼の方へと手を伸ばす。最初、彼は醤油やメニュー表等々を欲しがっているのかと思ったが、名前の要求はそうではなかった。彼女の口から、手という言葉が零れる。いまいち彼女の意図が読めないといった表情を浮かべたまま、翼は言われた通りに片手を伸ばした。すると、彼女は両手でその手を捕まえて、じっと見つめる。何も言葉を発さないまま、翼の片手を彼女は握った。ただひたすらに手に触れ続けることに熱が上がっているのか、それとも酒のせいで体温が上がっているのか、彼は分からない。ただただ、この熱さを気づかれないようにと必死になる。
音ひとつ、しない。個室の電気が、彼女の頬で反射した。二人きりの空間は、音を奪われたようであった。翼が息を呑んだ時、名前はパッと手を離し、自身の目元を擦る。少し崩れた化粧と潤んだ瞳が、彼女の隠そうとしている姿をしっかり現していた。酒でふわふわした翼の頭がはっきりとした瞬間だった。立ち上がった彼は、すぐさま彼女の隣へと移動する。名前はそんな翼から距離を取ろうとするが、彼はそれを引き留めようと言葉を掛けた。決して、自分から触れてはいけないと言い聞かせながら。



「名前ちゃん、何かあったの?」
「……つ、ばさくん」
「オレで良ければ、聞くから」



理由は言えなかった。再会したばかりの友人に、こんなにも翼が寄り添おうとしているのか。答えは簡単なのだが、今の彼にそれを名前に伝える勇気はない。彼女は翼から離れるのをやめて、彼と目を合わせる。いつもの柔らかな眼差しの中に、焦りの色が差していることに気づかないのは名前に余裕がなかったからだ。酒のペースが早かったことも、急に翼の手を掴んだことも全て繋がっている。
何をやっても上手くいかない時期ってあるよね。名前の弱々しい声が、翼の前でシャボン玉のように弾けた。翼くんがいるから、ちょっと甘えちゃったんだ。ごめんね。そう続ける彼女は、翼が伸ばしかけていた両手を阻止するように上から抑える。
名前ちゃんが彼女だったら。翼はくちびるを軽く噛む。もしそういう関係だったとすれば、この震えている身体を遠慮なく抱きしめることが出来る。だが、今の翼には何度も繰り返すようだが、その資格がないのだ。気持ちを伝えることすら満足に出来ない彼に、名前に触れる権利はない。途切れ途切れに聞こえてくる彼女の話に、翼は相槌を打つと同時に悔しさの渦に沈められていくようだった。

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