ベランダで電話を掛けている先はきっと劇団だ。丞さんの低い声が窓を通り越して聞こえてくる。焦燥に駆られることのない冷静な声とは反対に、わたしはこの場を既に逃げ出したくなっていた。今朝の天気予報では、雨が降ることはないでしょうと言っていたのに。
鳴り出した電話の受話器を取れば、その向こうから聞こえてきたのは友人のいづみであった。名前にお願いしたいことがあるんだけど。友人の頼みとあらば、全力を尽くすしか選択肢はない。いづみに言われた場所で待っていると、やって来たのは丞さんだった。人選に悪意があるのか、それとも善意なのか分からない。前者であれば、からかうためだと思うし、後者であればわたしたちの仲を進めようとしているのだろう。いづみ、と心の中で呟きながら拳をグッと握ると、丞さんが行くぞと言ってスタスタ歩き始めた。
用意する物にアドバイスが欲しいと言われ、彼の買い物に付き合っていると急に空が明るさを失い始めた。まさかと思った時には、冷たい粒に打たれ始める。お約束の展開になるように背中を押すことには、神様も加担しているらしい。雨宿りする場所が目に入った建物だった。その看板を見ることもなく、丞さんはわたしの腕をいささか乱暴に掴むと引っ張った。あれよあれよという間に、わたしたちは個室へと移動していた。部屋の時計が指す時間はもう、一般的には晩ご飯の時間。
「監督が今日はそこに泊まれって」
「……やっぱり」
「心なしか嬉しそうだったな」
ガラス越しでぼやけていた彼の姿が、部屋に戻ってきた瞬間に像を結んで明瞭に映る。止まない雨が、ついにベランダの窓へ打ち付けていて、さらには雷まで鳴り始めた。何がなんでも、この場所から帰してくれる気はないようだ。丞さんはわたしの隣を通り過ぎながら、風呂に入ると残して姿を消す。あまりにも普通の対応で、わたしがこんなにも動揺しているのがおかしくなる。
わたしは部屋に入ってすぐにお風呂に押し込まれた。有無も言わせない、丞さんによって。今はホテルに用意された真っ白のローブに身を包んでいる。初めて着たから変じゃないかなと鏡の前でさっきまでぐるぐる回転していた。丞さんはきっとすぐにお風呂から上がってくる。今度こそまじまじと見られてしまうに決まっている。ローブもベッドも、白がとても目に毒だった。
呆気なかった。何もすることがないから、明日に備えて早く就寝しようということになったのだ。丞さんは劇団のこと、わたしは仕事のこと、明日は休みではない。明朝にここを出るため、日付の変わる二時間も前にベッドに入っている。背中の向こう側には丞さんが横になっていた。
世間で言う恋人の間柄だというのに、あっさりと割り切った関係みたい。そんな言葉が頭の中を駆け巡った。お腹の辺りをギュッと結んでいた紐を緩めようと引っ張れば、解けてしまう。隣にいる丞さんはもう眠ってしまっただろうか。毛布も被っているし、多少崩れていても問題ないはずだ。今はもう、天井の白でさえも目に優しく映る。
「……名前」
急に名前を呼ばれて振り返ってみれば、ぱっちりと開いた瞳を向けた丞さんがいた。寝たんじゃなかったの、そう言いたかったが、彼の表情に思わず息と共に言葉も飲み込むことになる。はあ、と大きく息を吐いた丞さんはわたしに背を向けた。呼んだクセに目を合わせないような状況を作られて、心を刺されたような感覚になる。
「怖いんだな」
「えっ」
「なんでもない。早く寝ろ」
丞さんのことが怖い。それは紛れもない事実なのかもしれない。この部屋に入ってからずっと警戒していた自覚がある。決して嫌なわけではないが、もしそういう事に至ってしまったらと考えて、彼の行動一つひとつに敏感になってしまっていたのだろう。それが、丞さんにとってはキツく見えたのだ。
奥歯を噛みしめて、わたしは丞さんの背中に両手を伸ばした。抱擁ではなく、触れるだけ。匂いを吸い込めば、甘い眩暈でクラクラしそうだった。また、ベッドの白が目に止まる。けれど、それは目に痛いわけではなく、視界にすっと溶け込むようだった。丞さんは再度、わたしに振り返る。迷子になっている両手を捕まえると、彼は思いっきり引っ張った。さっき、この建物に入ろうとした時は違う感覚に襲われる。
途端に真っ白になる頭から言葉を拾おうと必死になるわたしに、ほんのり笑いかけた丞さん。雨の音は聞こえなくなってしまう。いくら雷が激しくなっても、わたしの耳には届かない。迫ってくる丞さんは、ギラついた瞳をしていた。潜伏していた熱を全て放出するようなそれが、わたしを捉えて離さない。わたしの声など、彼の前では重たい物に敷かれたように音を失ってしまった。背中に滲んだ汗を拭うような形で、丞さんの手がローブを掴む。なんだ、もう乱れてるぞ、名前。耳元で囁く彼は、そのまま生温い物を押し付けてくるのだった。
Title:溺れる覚悟