*女の子≠プロデューサー
夏の終わりを告げるように風鈴が、儚き音を立てる。透き通った中を泳ぐ金魚たちを見ながら、龍はゴロンと寝転んでいた身体を起こした。近くのテーブルに無造作に置かれた広告には、毎年恒例の花火大会が記されている。花火を見る度に、隣の人が変わる彼であったが、大きな花火大会も今年は今日で終了である。前回の花火は同じユニットの二人、そしてプロデューサーと仕事終わりに見ていた。だが、今回だけは違う。友人との約束ではなく、龍は彼女と花火大会に行く約束をしている。
家を出た龍は、車を運転してよく知っている道を途中まで進んで行く。花火大会の会場方面は普段とは違う風景が広がっている。穏やかな人通りがすっかり陰を潜め、大勢の話し声が窓を閉めていても聞こえていた。家族、恋人、友人といろんな形で夏の風物詩を楽しみにしている様子に思わず龍は口元を緩めると、会場とは反対方面へと車を走らせる。さっきまで寝転んでいた身体を起こしたのは、風鈴の音が聞こえたからではない。そして、夏の終わりをしみじみと感じたからでもない。名前が準備出来たと連絡をよこしたからである。彼女と付き合って、まだそれほどの月日は流れていないものの、二人で休みを見つけて遊びに行くことを度々重ねた。いわゆるデートだ。その都度、龍は洋服を悩み、デートプランを悩み、家を出る直前まで一日のことを考える。
約束の場所に龍が到着した時、既に名前は彼を待っていた。車の窓をほんの少しだけ開けて、小さく手招きすれば彼女は助手席へとやって来る。車のドアが二度、音を立てたが、龍は彼女の方をきちんと見ることも出来ずに、車を動かした。彼が走らせる先は、会場ではなく、別の場所だ。名前が龍に教えた秘密の場所である。知る人ぞ知る静かな所であり、車内からでも充分に花火を楽しむことが出来るらしい。随分昔にお父さんに連れて行ってもらったことがあるの。彼女はそう言っていた。車内で延々と流れるCDの曲に合わせて、名前が小さく歌う。最近発売されたばかりのCDに入っている、龍をいつも気にかけてくれるアイドルのソロ曲だ。会話こそなかったが、その空間を二人は心地よいと感じている。無理に話をするわけではなくて、一緒の空間を楽しむことが出来る。
約束の場所からそう遠くない、彼女の言っていた場所に到着したのは花火が始まる15分程前であり、近くに何台かの車が停まっていたり、人々の姿がちらほらとあるだけであった。花火大会のメイン会場とは比べ物にならないものの、いつもよりは賑やかな場所に姿を変えている。
「龍くん」
サイドブレーキを引いた龍の手の上に、名前の手がどこか遠慮がちに置かれる。その時、初めて龍は彼女の姿を見た。はっきりと全てが見えないのは、空もすっかり夜を迎え、近くの街灯も少ないからである。束ねられた髪から外れて、何本か耳や肩に掛かっている髪の毛が車のクーラーの風によって揺れているのが彼の目に入った。音量のつまみを回して、ボリュームを下げた彼女は、スマホの画面を龍に見せる。まだ、時間あるから、後ろに行きませんか。画面に大きく表示された時計と睨めっこをしている龍の耳に彼女の言葉が、やけにはっきりと入ってくる。眩しい画面から名前の顔に目を向けると、今度は彼女の方が龍から目を逸らしていた。ゆっくり頷いた龍は、エンジンをかけたまま、運転席を下りて、後部座席へと移動する。席を移すだけだというのに、扉に掛けた手にまで心臓の脈打つ音が響いていることが自分でも分かっていた。浴衣を着ている彼女は龍より遅れて、隣へとやって来る。着飾ったそれが崩れないようにと注意を払っていることが分かった龍は、薄暗い中で彼女の仕草をじっと見つめる。一つひとつの仕草を取っても、艶やかなそれに龍が頬を染めているのは後部座席では分からなかった。
「……名前ちゃ、ん」
二人だけの逢瀬は久々であった。今は誰の目も気にしなくていいのだ。街でのデートは常に人の目を気にしなくてはならない。木村龍はアイドルなのだから。龍はバックミラーに映る自分をちらりと見やった後、彼女との距離を縮める。鏡に映っているのはアイドルではなく、この目の前の子の彼氏であると言い聞かせた。遠慮がちに置かれている彼女の手に、今度は龍が手を重ねる。後部座席は、ほんの少しの光しかない。ぼんやりとしていて、視界は良好ではないのだ。しかし、触れることが出来れば、それで良かった。むしろ、外からもあまりよく見えないのは龍にとって好条件であり、少しの背徳感が彼の気持ちを昂らせる。
うっすら黒を纏った彼女から伸びてくる柔らかな手が、龍の輪郭を優しくなぞる。鼻孔を擽るのは、甘い香りだ。パンケーキに負けないくらいの甘美な香りに、龍は手を引っ込める。このままだと、浴衣を崩してしまいそうだと本能的に悟ったのだった。けれども、彼女は龍にもっとくっついて欲しいと強請る。自分は浴衣であまり動けないから、という理由も付けた。言われた龍はちょうど彼女の太腿くらいに密着するように、ポジションを整える。そうすれば、名前が突然龍の肩を包むように手を回した。雑誌の記事には、女の子が喜ぶのは逆パターンだと書いてあったが、それに限ったことではないと思った。今、名前の小さな笑い声が聞こえたのだ。彼女の背中をゆっくりと撫でる龍の手には、浴衣独特の感触が残る。普段着とは違う、特別な恰好をどういうつもりでしてきてくれたのだろうか。それが、自分を喜ばせてくれるものだったら、可愛いって思って欲しいから、であればいいなと龍は思った。
「久しぶり、だね」
「う、うん。そうだね」
「……龍くんはこういうこと、したくなかった?わたしは、したいって思ってたよ」
素直な言葉を吐き出した彼女の耳が赤いことに、龍は気づけない。色を完全に認識するのは困難を極めるのだ。後部座席に誘ってきた彼女はどうやら、人目を気にすることなく龍に触れたかったらしい。言葉として形にすることはなかったものの、今の言葉に隠された気持ちに彼は気が付いていた。龍自身も、こういうことをしたくないわけではない。しかし、いつもは我慢を強いられる。家でデートをする選択肢もあるが、どちらかの家に向かっている途中でメディアに見つかることも考えて、それには踏み出せていなかった。それに二人はまだ、手を繋いだことしかない。美しいほどに初々しい恋愛を育てている途中だ。家に二人きりなど、考えるだけで頭がパンクしてしまいそうだと龍は思う。緊張や照れに押し潰されてしまい、男の余裕など見せることができない。理想の男としての木村龍には程遠いのだ。メンズ雑誌を読み漁る龍が部屋の中で溜め息をついたのは、最近のことである。だが、彼は今だと思ったことがある。このタイミングなら、出来そうだと思ったことがあった。
「……ありがとう。そろそろ花火始まるから、外に出よう」
「待って。あの、名前ちゃん」
彼女が身体を離して、扉に手を掛けることを阻止するように龍が声を上げる。自分でも驚くくらいに声が大きかったのは、彼が今いっぱいいっぱいであることを示していた。再び龍の方を見た名前は、掴まれた肩と彼の言葉の続きにゆっくりと息を呑んだ。片方の肩から手を離し、彼女の顎へと移動させた龍は二人にしか聞こえないくらいに呟く。キスしたい、その言葉は熱に当てられた氷がすぐさま溶けていくようだった。ぼんやりとしか見えない互いの姿ではあったが、龍の言葉に彼女は瞳を閉じる。龍も同じように瞼を下ろしたが、彼はすぐに開き、彼女との距離を詰めていく。龍が名前を手繰り寄せる手は、とても熱かった。
Title:誰そ彼