はじめからぼくらはしってたね

*女の子≠プロデューサー



英雄は収録の終わった後、夕陽に照らされる帰路についていた。今日の収録は何度かFRAMEが出演したことのある番組であり、少しばかりではあったが余裕を持てたと彼はひとつ息を吐く。そんな英雄の前を、いかにも家に帰りたくないとばかりのオーラを纏った女が止まりそうなスピードで歩いて行く。少し震えている肩から下げられている鞄に、見覚えのあるキーホルダーがチラリと見えた。アイドルである握野英雄をモチーフにしている物だ。それに、彼女にはどうも見覚えがある。現時点で知人だと断定は出来ないが、思い当たる事もあり、英雄は早足で隣を過ぎながら女を横目で確認した。
お兄ちゃん。カラスの鳴き声に混じって、無機質なコンクリートの上に声が響く。抜き去った英雄の背中に掛けられた言葉に、彼はやっぱりなと思いながら振り返る。女は足を止めて彼の方を見ているため、二人で見つめ合うような形になった。前にもこういうことがあったことをぼんやりと思い返しつつ、英雄は彼女の言葉を待つ。彼の実家の隣に、彼より3つ下の女の子が住んでおり、昔から二人はとても仲が良かった。特に英雄は面倒見の良いこともあり、小さい時から彼女にはお兄ちゃんと慕われている。呼び方をどうにかして欲しいと彼女に注意したこともあったが、すっかり馴染んだ呼び方を断固譲らない姿勢を見せる彼女に負けて、今でもそのままであった。そうして、英雄が警察官になると決めた時、初めて二人は離れ離れになる。近くにいないとこんなにも静かなのか、と思うと同時に英雄は少し寂しい気持ちを抱いていた。
鞄が大きな音を立てて、地面に落ちる。お兄ちゃん、もう一度呟いた女は英雄の方にそろりと足を進めた。英雄はこれまた高校生の時にも似たようなことがあったのを思い出し、やれやれと彼女の頭をポンポンと叩くと、鞄を拾い上げる。握野英雄のデフォルメされたキーホルダーが穏やかに、くるくると回転した。



「お兄ちゃん、近くに?」
「名前こそ近くなのか」
「……まあね」
「そっか。久しぶりだし、俺の家寄ってくか?」
「いいの!?」



書類の詰まった鞄を肩に掛けた英雄は、昔と変わらない。落ち込んだ彼女の様子を見て、また話を聞いてやるかと家に呼ぶことにしたのだった。いつだって、彼女が沈んでいる際に話を聞くのは彼の役目なのである。互いに社会人になったとしても、変わることのない繋がりだった。
鍵を開けた英雄は、名前を部屋の中に押し込むと、パタンと扉を閉める。ヒールを脱いだ彼女は、英雄の部屋を物珍しそうに見ながら玄関を過ぎて、奥へと進んで行く。最後に会った時は、あんな風にスーツをかっちり着込んだ姿ではなく、高校の制服に身を包んだ姿だったのにな。彼女に聞こえないように呟いた英雄は、そっと笑う。直接顔を合わせたのは久しぶりだったが、連絡はちょくちょく取っていた。あの英雄のキーホルダーを名前が持っていることを知っているのはそのせいだ。写真で彼女が購入したことを英雄に送り付けたからである。だが、連絡は取っていても、ほとんどが仕事の話ばかりだった。だからこそ、今こんなにも近くに住んでいることさえ知らなかったのである。
テーブルの前に座り込んだ名前は英雄から鞄を受け取ると、その中に手を入れてスマホを取り出す。お兄ちゃんに会えたって、お母さんに連絡するの。英雄は冷蔵庫でキンキンに冷えている麦茶をコップに注ぎながら、彼女の言葉を聞く。氷をひとつ、ふたつ入れたコップを持っていくと、感謝の言葉を彼女は述べた。透き通ったコップを掴み、ゴクゴクと喉を潤していく名前の様子を見ながら、彼は大人になった自分だから気づけるものがあるものだと、頭を垂れる。面倒見の良さは彼を囲んでいた環境がそうさせ、その延長で近所の妹のような名前のことを放っておけないと思い込んでいた。しかし、今、英雄は改めて問いかける。自分との対話は一体、何度目になるだろうか。血の繋がっていない仲の良い幼馴染とはいえ、ここまでするのは別の感情を抱いているからではないかと。部屋に置いてある家族の写真を遠目に考えた。



「お兄ちゃん、ごちそうさま」



お兄ちゃんという言葉が英雄の歩みを鎖で繋ぎ止めているようだった。この言葉を名前から聞く度に、英雄から見た妹であることを強調されている気分になる。そして名前の方から、線引きをされていてこれ以上の関係ではないと宣言されているようだった。英雄は彼女から離れた時、既に新しい感情から目を背け続けていた。それを素直に認めることが出来ずに今に至る。そうして、やっと目の前にした時、初めてストンと心に落とし込むことが出来た。名前は彼にとって、妹ではない。英雄はゆっくり頷くと、何度も口にしている言葉を再度彼女に投げ掛ける。



「名前、その、お兄ちゃんってのはやめないか」



昔から呼び慣れている名前を急に変えろ、と初めて言っているわけではない。英雄は散々、この言葉を口にしてきているのだ。ただ名前には躱され続け、結局大人になってもお兄ちゃん呼びが定着したままである。苦しいのは英雄の方だ。今日の一言は、いい大人だし恥ずかしいからやめろと言ったのではない。お兄ちゃん、と壁を作られることが英雄にとって何よりも苦しいからこそ、ピリオドを打ちたいのだ。深い海に放り込まれ、空気を取り入れられないような感覚に陥っても、必死にそれに抗い続けてきた彼は全ての決着を望んでいる。彼は、もう彼女のことを一人の女として見ているのだから。
空っぽになったコップが、テーブルの上に寂しそうに置かれている。名前は何度も聞いてきた言葉に、いつものように流そうとした。しかし、英雄の鋭い眼光に思わず身体ごと彼から逃げるように向きを逸らす。真剣な表情が、彼女の逃げを許さないとばかりに突き刺さる。彼女が喜んで雛のように着いてまわる兄の表情ではなかった。名前はけたたましく鳴り出す身体の警鐘を収めようと、その場で背中を丸め、膝を胸元へと近付ける。だが、途端に、彼女の後ろから両腕が回ってきて、身動きを取れなくなってしまった。英雄の腕が彼女を捉えている。吐き出された熱い息が名前の首筋に掛かる。熱の篭ったそれは、同時に彼女の身体を更に熱くしていく。背中にぴったりと密着した英雄の心臓の音が、名前にもよく分かる。鍛え上げられた身体の奥底にある、鼓動が激しく主張していた。
英雄はてっきり抵抗されるものだと思っていたが、名前がいつまで経っても大人しいため、この後どうすべきかを懸命に考える。嫌ならば、この腕を早く振りほどいて欲しいのだ。時間が経てば経つほどに期待は膨らんでしまう。それともまさか、このような行為をされても自分のことを兄のように慕うのか。不安が過った彼の腕に、名前の指がそっと引っ掛かる。爪を立てずに、優しく。



「お兄ちゃん」
「……ごめんな。もう、俺が辛いんだ」



英雄の痛々しい叫びは、静かな部屋に何度も反響するようだった。幼い頃は心から世話を焼いていたかもしれないが、今となってはその形が姿を変えている。二人の環境が目まぐるしく変わるように、心も同じく変化を遂げているのだ。ただそれが、英雄だけなのかは分からない。彼は、名前の気持ちを読むことが出来る術を持ち合わせていないのだから。



「じゃあ、なんて呼べばいいの」



名前を抱き込んだ英雄の腕が一瞬緩む。その隙に彼女は抜け出すと、彼の方へと向き直す。捕まえた物は案外簡単に逃げられてしまうもので、その易しさに英雄は少しホッとした。これで逃がすことも出来なくなっていたのならば、彼が思う以上に拗らせている事実を突きつけられてしまう。まだ、諦めることが出来るはずだと英雄は自分に言い聞かせた。



「お兄ちゃん、じゃダメなの?」



名前の言葉を聞いて、英雄は静かに頷く。そして、前のめりの体勢になり、彼女の顔へと自分の顔を近づけた。昔から変わらない瞳に英雄がはっきりと映っている。座り込んだ場所から動こうとしない名前は、至近距離の彼にも臆することなく、ただじっと見つめている。先に目を逸らしたのは英雄だったが、その距離を詰めた。
諦めという言葉は、最初から彼自身には存在していなかったらしい。寄せたくちびるに、ここ数年募らせた想いが篭っていた。兄と妹という関係に収めていた我慢が弾け飛ぶ。そして、名前はまた逃げることもなく彼からの熱を享受する。なぜ彼女が英雄に抵抗することなく、受け入れているのか。身体も寄せた彼は、名前の身体をカーペットの上にゆっくりと押し倒す。シャツの上から柔らかい二の腕を床に押し付け、英雄は息を呑んだ。ここまで来てしまっては、戻ることなど出来ない。



「名前、俺、もう妹として見てないんだ」



お兄ちゃんと呼ぼうとする名前の口を再度塞ぎ、触れたままの手の指を動かす。彼女のシャツの一番上にあるボタンを外した。FRAMEとコラボした受注限定のネックレスが、顔を見せる。あっ、と名前が声を上げても英雄はその手を止めない。普段、スーツに隠れて日に当たることのない肌は、英雄が昔見た頃よりも随分白かった。英雄の足で押し上げられ、際どい所まで見えている太腿はデニールの低いストッキングに守られているだけだ。
電気の点いていない部屋は、窓から差し込む橙に包まれていた。チークで赤く染まった頬なのか、それとも別の理由で染まった頬なのか。名前の口紅の色がほんのり移った英雄は、一人の女に覆い被さり、髪を垂らしながら歯を覗かせる。彼女は、動かせない腕をチラリと見ながら英雄に呟いた。わたしだって、随分前からお兄ちゃんだって思ってないよ、と。お兄ちゃんって呼ばないと、苦しくなっちゃうから。そう、名前は英雄に告げた。



Title:ジャベリン
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