*女の子≠プロデューサー
随分この匂いにも馴染んだものだと自分でも思う。合鍵を持っているわたしは、家主よりも早くこの家にお邪魔していた。論文の追い込みが徐々に始まりつつあるので、ノートパソコンは毎日のように持ち歩いている。テーブルの上に置いて、鞄の中からファイルに綴じているプリントを何枚か手に取った。並んでいる黒に、赤いペンで容赦なく書き込まれている文字。ゼミの先生が添削してくれたのだ。構成の仕方、説得力の増す文章の書き方等々、勉強になることばかり。忙しい時間を縫って、わたしの論文を見てくれているのだから本当に感謝しなくてはならない。
四年の大学生活を経て、二年の大学院生活を送っているわたしと同級生の道流くんは、アイドルだ。互いに全く違う道を歩んでいるけれど、わたしは彼とお付き合いをしている。というのも、道流くんがアイドルとしてではなく、まだラーメン屋さんとして働いている時に出会ったのだった。話題の豊富な道流くんの話を聞くのはとても楽しい。柔道家、ラーメン屋、アイドルという経歴を持っていて、それでいて資格を取ることが趣味な彼は多方面の話に強いのだ。わたしの知っている事から知らない事まで、なんでも話をしてくれる。視野を広げるために通っていたはずなのに、いつしか道流くんという人のことを知るためになっていた。多様な考え方を知って、自分の創造力を高めようなんて思っていたのに。笑顔で話をしてくれる道流くんを好きになってしまった。閉店間際の、お客さんがいなくなる時間がわたしと道流くんの逢瀬だっただろうか。アイドルになってからは、彼と一緒にアイドルユニットを組んでいるタケルくんや漣くんを紹介してもらって、場は一層盛り上がっていた。
「ただいまー」
「あ!道流くんおかえり」
ドアの開く音と、彼の声が聞こえる。消したり打ち込んだりを繰り返す画面から目線を移し、ガタイのいい身体を見上げて道流くんと目を合わせる。バンダナを取り去った彼は、ゆっくりと座り込むと、おもむろにテレビの電源を付けた。タケルくんと漣くんはかなり高い確率で道流くんと一緒にいるので、こうやって一対一になるのは最近だと珍しいことかもしれない。内容を保存したパソコンの電源を切ると、ケースにしまい込む。そんな様子を見た彼は、もういいのかと尋ねてくる。言葉にはせず、ゆっくりと頷く。作業の内容としてはほとんど進んでいなかったけれど、道流くんとせっかく二人なのだから論文作業の時間をもったいないと思ってしまった。だって、論文は道流くんがいない時も出来る。でも、道流くんと過ごせる時間は限られているのだ。毎日コツコツやっているから急ぐことでもないし。わたしは、道流くんの隣に移動してテレビを眺め始める。
不意に、道流くんがわたしの脇下辺りに両手を突っ込んでくるものだから驚いた。まるでとても軽い物を持ち上げる勢いで、すっと身体が浮き上がる。小さく悲鳴を上げても、道流くんはその動作を止めることなく続けた。タケルくんや漣くんを軽々と持ち上げてしまう彼には余裕さえ見える。道流くんが伸ばした足の間に下ろされ、無言の時間が流れ始める。わたしたちの間に響いているのは、テレビの中で話しているキャスターの声だけだ。
背中辺りは、別に熱いものでも吹きかけられているわけでないのに、ジンジンと熱を持ち始める。そのうち、道流くんの鍛えられた身体が当てられていることに気づく。彼は普段、タケルくんや漣くんの面倒を見ているようなものだから、自分が甘えられる機会はあまりないのかもしれない。それは傍から見ていてよく分かった。いつでもお兄さんのような、いや、家族の大黒柱のような存在である。
「あ、あの……み、道流くん」
「今日は二人だから」
「……そうだけど」
「名前は嫌か?」
返事の代わりに、テレビを見ながら後ろから聞こえてくる声に首を振る。まるで、会話の相手が画面の向こうの人間のようで、今日のニュースを読み上げるキャスターを見つめた。すると、ポンポンと頭を軽く触れられ、道流くんはわたしがまるでぬいぐるみのように扱う。回ってきた手に思わず、肩を揺らした。身体の支え方がぬいぐるみと全く一緒だ。確かにわたしは道流くんからすれば、小さなぬいぐるみのように見えているのかもしれないけれど。
「はは、やっぱり名前だな」
「え?」
「タケルや漣とは全然違う」
比較対象が男の子なのだから当たり前だろう。むしろ一緒と言われてしまったらショックで立ち直れないところだった。お腹辺りに手を置いて、ちょっぴり摘まんでくる道流くんはいじわるだ。そこ、いつも摘まんじゃダメって言ってるのに。それから、お腹周りを気にしていることも彼に言ったことだってあるのに。お構いなしとばかりに触ってくる道流くんの手の甲に自分の手を重ねる。でも、その手を剥がすなんて本当は出来ない。そうやって、大きな優しい手で触れてくれるのが安心するし、心が温かくなるのだ。この時間だけは、この手を独り占めしてわたしだけの物にしてしまう。
名前。道流くんがわたしの名前を呼ぶと同時に、向きまでひっくり返す。さっきまでバンダナを付けていたせいで癖が付いてしまっている彼の髪の毛が、可愛らしく跳ねている。お茶目な彼の一面を表したようなそれに手を伸ばそうとすると、道流くんが顔を近づけてくるものだからびっくりして目を瞑れば、おでこにコツンと別の熱が当たる。瞼を上げると、至近距離の道流くんの顔。くっついたおでこは離れない。わたし、道流くんといるだけですごく幸せなんだ。彼の手は今度、わたしの横髪を耳にゆっくりとかける。耳の端っこに触れた手が擽ったくて、手足の指をピンと伸ばした。
Title:誰そ彼