*女の子≠プロデューサー
郵便受けに放り込まれる招待状。志狼が今日の午後、学校の授業で書いたものである。毎年、小学校で行われる一大行事として運動会が挙げられるが、その行事に関連した国語の活動として手紙を書くことが組み込まれている。地域に住む人への呼びかけも兼ねて、子どもたちの知り合いに手紙の形で招待状を出すようにしているのだ。相手は自由だった。志狼は迷うことなく、近くに住んでいる大学生の名前を封筒に大きく書く。まだ習っていない漢字があったが、彼女の名前を書けるように何度も練習した。そうして、郵便受けの前に立った志狼は一人で達成感を味わっている。直接渡すことも考えたが、なんだか照れくさい上に彼女はまだ大学から帰ってきていないらしい。もしかしたら、バイトかもしれない。とにかく家にいないのだった。
今日のミッションは終了、そう思った彼はグッと背伸びをすると大きく息を吐き出す。運動会まであと、一週間だ。自分の出場する種目は全て見て欲しいと思っているのだが、彼はその中でも徒競走のことを手紙で強調している。他の競技はチームで動くことばかりだが、徒競走は個々の勝負だ。それに志狼は走ることが得意である。良い姿を見せてやろうと思っている彼は、一層気合いが入るのだった。
運動会当日。季節は秋だというのに、まだ夏が過ぎ去っていないような暑さだった。校庭に散らばる落ち葉は秋色を仄めかせているものの、気温はどんどん上がっていく。志狼は帽子を脱いで、くるくると指で遊ばせ始める。開会式が終わったあと、彼の出番はしばらくないため、係の仕事をしながら自分のチームの応援をする。その一方で、観客席を何度も見やる。招待状を受け取った彼女は絶対に来てくれるという、根拠のない自信を持った志狼は彼女がよく着ている洋服の雰囲気を思い浮かべる。今日は日差しが強いから、日傘を差しているだろう。そんなことも思いながら。
午前中にいくつか競技をこなした後、いよいよ昼休憩の前に彼の大一番がやってくる。入場門に整列した彼は、隣に並んでいるクラスメイトに負けないことを宣言しつつも、どこかソワソワした様子で落ち着きが欠けていた。前種目はもう終わってしまって、選手の退場するのを待つだけである。しかし、志狼の視界に彼女は一向に現れない。
上級生の先導のもと、志狼はスタート位置の近くにある待機場所へと小走りで移動する。練習でも常に一番を取ってきた彼は油断しなければ、いつも通りの力を発揮することが出来るだろう。今日の本番ではゴールテープが引かれ、ゴールの先には1と大きく書かれた赤い旗が待っている。志狼の前の組がスタートしたのを見た彼は、自分のスタート位置へとゆっくり歩き始める。背中からは、志狼くん頑張れという声が絶え間なく聞こえていた。
左側に立っているピストル係の上級生が、ゴール地点を見て頷いた。志狼は唾を飲み込む。赤い旗を目に入れるために、ゴール辺りを見た時だった。日傘を差して、握った拳を志狼に向けている女がいた。その拳はパッと開かれたと思えば、次は狼のような姿へと変身する。その瞬間に間違いなく、彼女だと理解した志狼は軽く足踏みをすると、聞こえてくる用意の言葉に片足を下げる。高らかなピストルの音が鳴り響いた刹那、志狼は飛び出して行くのであった。
昼休憩の時間に入った志狼は満足そうな顔を浮かべて、運動場をぐるりと回っていた。見事に赤い旗のところへ並ぶことが出来たわけだが、足を運んでくれた彼女とはまだ一言も交わせていないのである。用意してもらった昼食もそこそこに、志狼はその姿を探す。もう帰ってしまったのだろうか、そう思い始めるとまるで尻尾が垂れ下がった犬のようだった。
「志狼くん、おめでとう!さすがだね」
「あっ、名前!」
そんな表情も束の間、花が咲いたように明るくなる志狼の目線の先では名前が手を振っている。まだ彼の中では徒競走が続いているのであろうか。そのようなスピードで駆けていく彼は、両手を広げて嬉しさを大袈裟にアピールする。そして、咳払いをひとつ。手を腰に当てながら、日傘の中でクスクスと笑っている彼女を見上げる。日から隠れた彼女の肌は、運動会の練習のせいもあって焼けていた志狼と比べて随分白かった。
「午後も見てるからね」
「よっしゃー、オレのこと見逃すなよ!」
「うん。あ、志狼くんちょっと待って」
鞄からハンカチを取り出した名前は、それを志狼の口元に寄せる。先程急いでおにぎりやおかず、麦茶を口にした彼は自分で気づいていなかったようだが、口周りが少し汚れていた。ふんわりとした石鹸の香りが鼻を擽った志狼は思わず目を丸くする。親にされる時とは全く違う感触に戸惑いを隠せず、頬をほんのりと赤くした。花柄のハンカチの周りが綺麗なレースで飾られたそれは少しだけ汚れてしまったが、彼女は気にしていないようで、汚れた面を内側にして畳むと鞄の中にしまい込む。自分の周りにはそういない、小奇麗にしている彼女は志狼よりも一回り年が上だ。化粧や洋服にも気を遣っていることは彼にも分かっている。
「あ、あのさ、オレ」
「うん?」
「今のままでもよゆーなんだけど……」
「……ふふ」
歯切れの悪さに、彼が何を言いたいか察した彼女は日傘を畳むと、志狼の顔の高さまで屈む。おおかた彼はもっと頑張れるような何かを欲しているのだ。名前は何がいいかと考えたが、あいにく今は特に何も持ち合わせていない。彼女の持参した昼食を分けることも頭を過ったが、それは志狼の家族が用意しているものが一番だと思った。
志狼の頭を撫でた名前は、そっと頬にくちびるを寄せる。昔、自分が小学生の頃に好きだった近所の大学生にやってもらったことを思い出したのだ。さっき、水で綺麗に洗い流してしまったので、口紅がつくこともない。ちゅ、と可愛らしい音を立てて離れた彼女は志狼の目の前で笑った。
「……え?えっとえっと」
「頑張って!」
「あっ、あったりまえだろ!」
志狼はくるりと彼女に背を向けると、一目散に駆けて行く。食べかけの昼食を必死に思い出そうとするが、先程の名前の行為がどうしても頭の中を占めてしまう。彼は頑張れるようなおまじないを期待しており、どさくさに紛れて触れてもらえたりしないかなと心のどこかで思っていたのだが、予想外の展開であった。客に対して投げキッスを志狼がステージで披露することはあっても、実際にしたことはない。柔らかいくちびるの感覚が離れない彼は、両手でその頬を押さえる。身体から込み上げてくる熱は外の熱と交じり合って、志狼を一段と火照らせていくのだった。
Title:溺れる覚悟