チェックメイトと呟いた

*女の子≠プロデューサー



随分と彼に対してのイメージが固まっていたのは、前職のことを聞いたこともあるけれど、みのりさんに舞い込んでくるお仕事にちょこちょこお花に関することがあったからだと思う。流された前髪が風で揺れるとフローラルな香りがわたしの鼻を擽る。まるで、目の前に一輪のお花を差し出されているようだった。ひとたび彼が笑えば、小さな花々がくるくると回転する。
引越しをしたお隣さんがたまたまあの渡辺みのりだったというだけだ。初日に挨拶をしようとチャイムを鳴らすと、扉の向こう側から有名人が出てきた時は驚きすぎて肝心の挨拶は吹っ飛んでいた。結局、みのりさんに声を掛けられるまで、空を飛んでいたような気分に浸っていたわたしは初対面そうそう大恥をかくことになる。でも、彼はとても柔らかい口調で話をしてくれた。一人称が俺より僕の方が似合うくらいには。
簡単な自己紹介を終えたあと、みのりさんはくちびるに人差し指をくっつける。ただ、俺がここに住んでいることは秘密にしてね。二人だけの約束。小指を絡ませたみのりさんは、ほんのりと笑った。どこか女性的な雰囲気を思わせて、わたしは安心感を覚える。



「名前ちゃん、お待たせ。この前は助かったよ」



そんな彼との出会いから時間が経って、わたしは彼の家に招かれていた。調味料が足りないと困っていたみのりさんに貸しただけなのに、こんなに豪勢なお返しとは。わたしはたったあのくらいなんだから大丈夫です、と言ったけれど、みのりさんは本当に助かったからお礼をさせてと強い押しに負けてしまった。
小さなテーブルの前に座り込んでいると、みのりさんが最近オープンしたばかりのケーキ屋さんの箱をわたしの前に置いた。丸みを帯びた可愛いロゴに飾られた小さなお花。お店の雰囲気も気になっていたわたしが表情を明るくさせたことにみのりさんは気づいたようで、笑われてしまった。いい歳した女が子どものように喜ぶなんて恥ずかしい。くちびるに力を入れるとみのりさんが箱を開けて、何種類かのケーキを小さな展覧会のように披露した。二人で食べてしまうには数が多すぎる気がする。



「どんなケーキが好きか分からなかったから、いろいろ買ってきてみたんだけど」
「こ、こんなに……!」
「気になったケーキはどれかな?」



みのりさんはわたしと目を合わせて、前髪を手で払うと耳に触れる。その一連の仕草があまりにも色っぽくて思わず目を奪われてしまう。今はお隣さんの渡辺みのりなのだから、ファンサービスみたいなことはしないで欲しい。ステージ上なら、その先がお客さん全員だけど、この場だとその矢印の先にいるのはわたししかいないのだ。あのサービスを一人占めしていて変に緊張してしまう。
差し出されたお皿とフォーク、ジュースの注がれたグラスに頭を下げると、両肘をついたみのりさんが自身の指先を絡ませて顎へと当てる。爪先はお姉さんのように綺麗だけど、その指を辿っていけばやっぱり男の人だ。柔らかさよりも硬さの主張が激しい。細められた瞳はわたしのケーキの選択を静かに待っていた。二つの瞳は温かな光を携えて。
わたしはひとつのケーキをお皿に取ると、残ったケーキをみのりさんの方へと箱ごと少しだけ押す。みのりさんが選んでも余るケーキは彼と同じユニットの子たちに配られることだろう。どうぞ、みのりさんの言葉に手を合わせて再度お礼を言ったあと、フォークをてっぺんに乗っている苺にゆっくりと差し込んだ。







食べ終わる頃には緊張感も解けて、しばらくみのりさんと談笑していた。このケーキ屋さんのケーキはリピート確定と二人で頷く。新設だけど、きっとお客さんがズラッと行列を作るのも時間の問題だろう。それまでに数回買いたいと思った。



「みのりさん。そろそろ……」
「そうだね。長い時間引き留めてごめんね。送るよ」
「お隣なんですから大丈夫ですって!」



近くにあった鞄を肩に掛けたわたしは、入ってきた道をなぞるように引き返して行く。その途中で台所が目に入る。隅に飾られている一輪のお花を見て、やっぱり彼はお花が好きなんだと思った。お皿やその他の調理器具が整理整頓されているのも分かる。性格はちょっとしたところにも表れるものだ。
そこで、足を止める。今日はみのりさんがお礼をしたいと言った。なぜなら、調味料である塩を切らし、わたしが貸してあげたから。しかし、台所にはひらがな表記でさとうと書かれた隣にしおと書かれた小箱がある。どちらも白色が山を作ったように、同じくらいの量が入っている。あれ、おかしいな。みのりさんは塩を貸してくれないかなと言ってきたはずだ。そして、ほんの少しの量の塩をラップに包んで彼に渡した。
わたしが塩を指差そうとした瞬間だった。玄関へと繋がるひとつの扉の前で肩から落ちていく鞄が音を立てる。胸の前に回されたかと思えば、その二つの腕がわたしの口をそっと塞いだ。さっき遠くに見ていたはずの指に、赤い色がそっと付く。まるで、わたしがキスしたかのようだ。足の指がピンと伸びる。



「名前ちゃんにバレちゃったな。塩がないなんて、嘘だよ。部屋に連れて来る口実を作るための、ね」



服の裾が皺になるのも厭わず、思いっきり握った。今朝アイロンをかけたなんてことも気にせずはいられなかった。みのりさんが、口実を作るために嘘を。その事実を受け入れるように、心の中で言葉を復唱し、噛み砕いていく。
みのりさんに野菜や余り物をお裾分けする度に、暇があったら遊びにおいでよと誘われていたものの、どうしてもその気にはなれなくて遠慮していた。彼のファンがどう思うだろうか、一般人である自分にはそんな権利がないと言い聞かせて。だから、みのりさんが何度も掛けてくれていた言葉を無下にすることになっていた。
塞がれたままの口は言葉を紡ぐことさえ許してもらえない。片手にくちびるを覆われて、もう片方の手はわたしの鎖骨辺りに触れた。背中にぴったりくっついてはいないものの、わたしとみのりさんの身体の隙間はほんの少しだと感覚的に察した。



「……俺と二人きりは嫌かな」
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