*女の子≠プロデューサー
紙の捲る音と女の声だけが聞こえている。殺風景な中で、語られるのは閉じ込められていた世界を引き出していく様だ。作者が媒体に閉じ込めた思いを、女が声を出し、ページを捲ることによって伝達していく。
椅子に座った彼女の前で床にペタリと座り込んでいる少年はまばたきを忘れ、食い入るようにその世界を見つめている。彼は本を読む側に徹することが多かったが、この年になって久しぶりに聞く側になっていた。現実と離れた世界が、静かにそこへ広がりを見せ続ける。時折、読み手の女をチラリと見る。薄い青色のエプロンを着た彼女は、たった一人のお客さんだけのために口も手も休めない。くちびるから音が紡がれ、指先は新たな世界への道標のようだった。
絵本の終わりは何も描かれておらず、ただ一色で飾られたページで女は手を止める。コミュニケーションに不慣れな彼が、施設において周りの人間と繋がるための一つの方法としていたのは絵本だった。
少年、大河タケルは絵本の読み聞かせを施設で自分よりも小さな子どもたちにする際、そのページをいつもすぐに捲ってしまっていたことを思い出す。どうして、何も描かれていないこのページで間を置くのか不思議だったが、本のはじまりとおわりにこのようなページが設けられている意味を今なら理解出来そうだった。物語に入り込む瞬間、そして現実へと帰ってくる瞬間、それが役割として与えられている。言葉も絵もないその部分の必要性を感じたのだった。
「今日はタケルくんだけだったね」
「ああ」
「タケルくんがしっかり聞いてくれて嬉しかったよ」
「……本の感想は聞かないのか?」
「それはね」
感想は強制するものじゃないから。彼女の言葉がすんなり入ってきたタケルは、ぼんやりと絵本の向こう側を見つめた。本には単純な言葉で表しきれない何かがある。それを子どもたちがそれぞれ感じてもらえることが一番だから。そう、彼女は続けた。一人ひとりの気持ちは自分で大切に持って欲しいということらしい。
タケルは自分の活動に思いを馳せる。絵本の読み聞かせはどこかアイドルと似ている部分もあるのかもしれないと。もちろんアイドル自身が何かしら思いを持って、客と向き合うことは必要なことである。しかし、受け止め方は人によってそれぞれだ。その受け止め方に良いも悪いもない。順位を付けることなど出来ないのだ。
絵本を閉じた彼女は椅子から立ち上がると、いくつも机と椅子が並べられている中で抜けている場所に椅子を持って行く。目に刺激を与えず、変に目立つことのない小波のような色が揺れた。細かい気遣いを垣間見た気がしたタケルも同じく立ち上がる。
「名前さん」
「なに?」
「これ、今度の」
タケルは鞄の中の小さなファイルから、紙切れを一枚取り出す。名前は印刷された表面の文字にすぐさま目を通して理解をした。それは彼らの出演するライブのチケットだったのである。THE虎牙道と書かれた文字は眩しい。タケルはなかなか受け取ろうとしない彼女の前にチケットを差し出したまま、引っ込めようとはしなかった。
チケットの端に書かれた小さな数字を見て、彼女は一層受け取れなくなってしまったのだ。彼の積み重ねた努力も含め、彼らの事務所全員の頑張りが実を結び、随分と大きな会場でライブを出来るようになっている。数字の羅列は金額を表していた。名前は両手をタケルの前で振り、受け取れないという意思表示をする。だが、彼は引き下がらない。ただ静かに首を振りながら、チケットを彼女に押し付ける。
「お金を」
「……いい。俺が招待したいと思ったから」
「でも」
人に何かを伝える、その姿勢がタケルは目の前の彼女と似ていると思ったのだ。それがどんな場所であれ、根本は変わらない。人を動かすことの出来る物だと直感していた。絵本を読み聞かせること、ライブをすること、静と動。正反対のようで、実は離れた存在ではないことをタケルは確かに感じていたのである。名前にも味わって欲しい、その思いからチケットを差し出しているのだ。だが、このような肝心なことを彼は決して口にしない。
唸りながらも、相手が引く様子が全くないと分かった彼女はタケルの持っているチケットの端を人差し指と親指で摘まんだ。ほんの僅かだったが、彼の表情が明るくなる。申し訳なさそうな表情を浮かべる名前を見ながら、口元を緩ませた。時には強引さも必要らしい。
「ありがとな」
「こっちの台詞だよ。タケルくん、招待してくれてありがとう」
「今日も……その、絵本、良かった」
「ふふ、嬉しいな」
タケルは小さな部屋を後にする。彼の足取りはいつになく軽く、廊下を歩いて行く。人の声ひとつしない廊下は、彼を緊張させた。ステージへの小さな階段を上っていく瞬間と似ていて、徐々に速度を上げていく。光の差し込む玄関の扉が自動で開いた時、タケルは走り出していた。このまま、事務所まで走る気分になったのだ。
またいつか、自分が本を読む側になったら彼女のように読んでみよう。全てのページにひとつずつ意味があることをきちんと理解して、読み聞かせに臨んでみよう。そうすれば、今まで知らなかった何かに出会えるかもしれない。自分がアイドルになって、ライブステージに初めて立った時のように。
弟や妹も、喜んでくれるだろうか。先程までとは打って変わって、騒がしい、けれど賑やかな町中を駆けて行く彼の瞳は、まるで新しい色をまたひとつ宿したようであった。ずっと目指している場所へ届くまで、タケルは立ち止まらない。その先の未来を描いているのだから。
Title:溺れる覚悟