*女の子≠監督



夕食後、臣がデザート作りに専念している時だった。彼が談話室のテーブルに置きっぱなしにしているスマホが何度も鳴り響く。臣の外見には少し似合わない可愛らしい通知音だったが、それが怒涛に鳴るせいで、近くにいた万里と太一がスマホを覗き込んだ。画面の一番下に最初に届いたメッセージが通知されている。名前という相手の名前を見た万里は隣で覗き込んでいる太一の腕を小突く。太一は万里と同じような表情を浮かべ、二人して続きのメッセージを見たが、途端に二人の表情は一変する。太一は焦燥を浮かべ、万里は疑問の表情だった。名前という女が臣の彼女であることは劇団内でも周知であり、仲が良いことに定評がある。臣の他に、誰も会ったことはないのだが、彼の話を聞く限りは良い子だということが分かっていた。そんな彼女が臣に送ってきたメッセージに、二人が出した結論は見なければ良かった、である。ええっ、と小さく悲鳴を上げた太一は臣のスマホを持った万里の後ろをついて、持ち主のところへと歩いて行く。万里は、ここは任せろとばかりにズンズン進み、まるで遠慮などないように臣に切り出した。
一方の臣はというと、いろんなスイーツ作りに更に磨きをかけている途中であった。彼は、冷蔵庫にあった物をキッチンに並べ、今まで作ってきたスイーツの手順や材料を頭の中で思い返す。臣が次に作ろうとしている物は何であるかは誰も知らないが、彼の新作と聞いて心をときめかせるのは皆同じであった。
そこへ万里が彼のスマホを持って現れたものだから、臣は手を止めて、万里と太一に声を掛ける。低い声は怖さを強調しそうだが、彼の声はとても落ち着くようでひどく優しかった。



「臣」
「どうした?」
「名前さんとなんかあったんじゃねえの?」
「名前?特に何もないぞ」
「臣クン、これ」



最初のメッセージは至って普通なのだ。臣くん、と書かれている文字は単なる呼び掛けだろうが、その次が大問題である。それに、今日はエイプリルフールではない。万里から受け取った臣は二人が移動中に消えてしまっていた画面を明るくする。そこには、臣くんというメッセージの後に、嫌いになった、別れたい、という文字が並んでいた。目を丸くした臣は、早速彼女とのトーク画面に移り、名前と同じように名前を打つ。見守るのは、ハラハラしている太一と、どこか戸惑った面持ちの万里。
名前、何かあったのか。理由を聞かせてほしい。臣がメッセージを送信したが、すぐには返ってくることなく、うーんと唸り声を上げながら彼はキッチンに綺麗に並べていた材料をひとつ残らず冷蔵庫に戻した。さすがの彼も、彼女から一方的で、しかも予想だにしないことを送られてきてはスイーツ作りに専念することは難しいらしい。



「臣、最近ホントになにもねえのか?」
「俺はないんだが……」
「名前チャンにはあるのかもしれないッス」
「名前からこんな風に言われるの、初めてだな」



メッセージを見てから気持ちを顔に出さないように心掛けていた臣だが、あまりにも突然のことで、万里や太一の前で思わず気持ちをそのまま吐いてしまったような表情をしていた。万里や太一も掛ける言葉が見つからず、談話室から出て行く彼の背中を見つめるばかりである。
自室に戻るのかと思いきや、彼の姿は寮のバルコニーにあった。不思議なことに何かある時、劇団員がここに来ることは多い。自分の気持ちを整理するために利用しているのだ。これといって何があるわけではなく、誰もいない落ち着いた空間に、ほんの少しの明かりと空が見えるだけである。すっかり真っ黒に塗られた空に、点々と金の絵の具が落とされたような空を見上げて、臣は再度トークの画面を開く。返事はない。そして、既読すらも付いていない。通知画面で臣の言葉を見ることは出来るだろうが、彼の言葉に一切返事をしないつもりなのだろうか。
こんなことは彼らの間に一度たりともなかった。臣は彼女のダメなところをいくつか見つけたことはあったが、それも含めて名前のことが好きだった。ただし、それを口にしたことはない。伝えずに、ただただ自分の心の中に閉じ込めている。特別伝えなくてはならないと彼自身が思わなかったからだ。
画面を消して、先程心配そうにしていた秋組の二人にきちんと声を掛けておかないといけないな、そう臣が思った頃、秋組の稽古の時間が近づいていることにようやく気付いたのだった。なぜなら、左京の声が聞こえるからである。稽古の開始時間よりも前に集合して、いづみが合流するまでに秋組だけで稽古をするのが最近のやり方だ。着替え等の準備があることを分かっている臣は、一旦彼女の事は置いておくことにするらしい。彼が去ったバルコニーの手摺りに止まった小さな鳥が一声、寂しげに鳴いた。







稽古が終わった後、臣に声を掛けてきたのはもちろん、名前のメッセージを目の当たりにしていた万里と太一である。何も進展していないのにも関わらず、臣は二人に向かって大丈夫だと言った。それをすぐに嘘だと見抜いた万里だったが、何も口にすることは出来ず、稽古場を出て行く臣の背中をまたもや見つめるだけになる。太一は首を傾げながら、臣のことを疑っているようだった。今のは、嘘かな。彼もまた、臣が塗り固めた嘘に気が付いていて、それでも言葉が出なかったようだ。
自室に戻った臣は、返事のないことにいよいよ怖さを覚え始める。大事にすると誓った彼女が離れようとしている原因に、全く思い当たらないのだ。やはり自分ではダメなのか、そう思い始めたところでふと顔を上げれば、いつもは畳んでおいてある自分の服が雑に脱ぎ散らかされていることに気づく。余裕がないのを自覚させられるようだった。
稽古着からいつもの服に着替えた臣は、自室の扉を勢いよく開けて、玄関へと一直線だ。途中ですれ違う劇団員たちやいづみに、ちょっと出てくるとだけ言い残して。その中にいた万里や太一は、いってらっしゃいと手を振った。なんのことか分からない劇団員たちは、臣の言葉に返事をしたものの、彼が急いで出て行くのは珍しいと思うばかりである。
名前、いま行くから。臣は玄関を出た後、未だに読まれていないであろうメッセージに重ねて送る。スマホをポケットに入れた臣は走り出す。人通りの少ない路地を抜け、ぽつりぽつり明かりが灯る道を行く。野良猫の集会所を通り過ぎ、カラスの鳴く空の下を駆ける。彼を急かし続けるのは、恐怖心に加わえて彼女を心配する気持ちだ。
インターホンを鳴らす臣は呼吸を整えながら、彼女のことを待つ。あんなメッセージを送ってくるのだから、このドアを開けてもらえる保障はない。それでも、待ち続ける覚悟が臣にはあった。後悔するなんて嫌だ、彼の叫びは踏みしめられた足に篭っているようだった。



「お、おみ、くん……?」



ほんの少しの隙間から、ふたつの瞳が臣を捉える。声は震えていたが、臣は目を合わせることが出来ただけで安堵していた。会ってもらえないのではないかと本当に思っていたからである。彼女はそのまま、ボソボソと呟き始める。その中に理由が隠されているのだろうと思った臣は、彼女の言葉をひとつとして聞き漏らさぬように耳に神経を集中させる。



「LIME送ったの、見た?」
「名前は俺が送ったのを見てなかっただろ」
「ううん、ちゃんとその後、お返事したよ。臣くんがこっちに来るって言ったときに」



臣は扉の前でポケットに突っ込んでいたスマホを取り出して、画面を点灯させる。確かに彼女からのメッセージは届いていた。さっきのは、嘘だから。身体の力が抜けたように臣はその場にしゃがみ込む。名前はそんな彼の姿を見て、一気に扉を開くと、部屋に入るように促した。嘘だから、ごめんね。そのメッセージに息を吐いた臣は、彼女の部屋にとりあえず上がることにするのだった。
明日は休みであるが、稽古が待っている。彼は遅くまでここにとどまることは出来ないのは分かり切ったことであった。だからこそ、このメッセージの真相を早々に突き止めなくてはならない。臣は腰を下ろすなり、彼女に優しい瞳を向けて尋ねた。



「どうして、あんなことを送ってきたんだ?」
「理由は……」
「うん」
「臣くんに、怒ってほしかったからなの……ごめんなさい」
「俺に?」
「怒ったりしてくれないのは、あんまり、興味ないからかなって」
「……そんなわけないだろ!」



大きな声を上げて立ち上がった臣は、身体を震わせる小動物の前に姿を現したクマのようだった。彼がどれだけ心配したか、そして怖いと思っていたのかを彼女は分かっていないのである。名前に会うまで、臣は気が気でなかったのだから。



「嘘でも、言ってほしくなかった」
「……ごめんね、ごめんなさい」
「でも」



芝居をしている時のように表情をスッと変える臣は、もう一度座り直して頭を下げた。名前の部屋の小さな電気が、彼の後頭部を優しく包み込むように照らし始める。頭を垂れたままの彼に手を伸ばそうとした名前だったが、臣の声に手を止める。



「俺もごめん。名前の言うことも分かるよ。俺があんまりいろいろ言わなかったからだろ。自分が思ったことをすぐに言わずに、後回しにするの、俺の悪いところなんだ」



臣が名前を見てくれていない。そんなことは微塵もないことを本当は彼女も分かっていて、ただ、確かめたかっただけなのである。髪の毛に一度滑らせた手をそのまま、そっと臣の頭に落とす。座り込んでいる時くらいしか触れることの叶わぬところに心を跳ねさせながら、彼女は謝罪の気持ちも込めて撫でる。



「ごめんね、本当にごめんね、臣くん。でも、来てくれて嬉しかった」
「……もっとちゃんと言うようにするよ」
「わたしのこと、大切にしてくれてるんだよね。ありがとう。試すようなことをして、本当にごめんなさい」



顔を見て話をすることで簡単に解決してしまった問題だった。けれども、二人にとっては大きな問題だろう。二人とも口にしないことが多く、すれ違いが起きていたのである。臣は身体を元に戻し、お返しとばかりに名前の頭を撫でる。彼は自分が撫でられるよりも、撫でる側の方が良いと思った。少し恥ずかしそうにしている彼女の顔がよく見えるからである。名前の向こう側に見える白いシーツには目を背けながら、臣は帰るよと一言呟く。彼の言葉に頷いた彼女は、玄関へ向かう大きな背中を追いかけながら、やっぱり好きだと心の中で言った後にハッとする。言葉にしなくては、と。
靴を履いた臣は、ヒールに素足を入れようとしている名前を止めた。というのも、外は肌寒く、何より暗い。彼女を外に出すわけにはいかなかったのだ。時間も遅いからと彼女を止める理由を並べた臣が、くるりと名前に背を向けた時である。裾を掴まれているために、そこから一歩進むことは阻まれてしまう。臣の力で振り切ることは簡単なのだが、彼はそうやって強引にすることはない。



「名前?」
「臣くんが思ってるより、わたし、とっても面倒な女なの」
「そんなことないよ」
「寂しくて、でも臣くんはお芝居もあるから」
「……うん」
「ひとつだけ、いい?」



瞳を細めて、ゆっくりと頷いた臣に降ってきた言葉は熱の篭ったものだった。臣くんはキスしてくれないの。言われた内容を確認しようと彼女の表情を伺いたかった臣だが、名前が両手で顔を覆ってしまっているために何も分からないままだ。
臣と名前は付き合ってから、これまでに一度もキスをしたことがない。臣が彼女の両手を開けていく様は、まるで宝物の箱を開くようだった。先程よりも頬を染めている彼女は臣に言葉を投げかけるだけが精一杯だったらしく、もう、目を合わせることすらままならなかった。
この状態でキスをするのは、と臣が踏み止まったというのに彼女はその背中をいとも簡単に押す。わたしはずっと、臣くんとキスがしたいって、玄関で響く小さな言葉の続きを飲み込む勢いで臣は彼女を抱き上げて、乱暴に靴を脱ぎ捨てた。すぐ傍の壁に彼女の背を半ば押し付けながら下ろすと、両腕を捕まえてそれも同じく壁へと押し付ける。熱い息を吐いた臣のくちびるが名前に迫れば、玄関の薄明かりが彼女の瞼を下ろす様子をほんのりと見せる。自分だけの物にしてしまったような感覚に襲われた臣は、最後に鍵を掛けるかのように彼女のくちびるにそっと自分のそれを寄せた。もう、逃がせない。そう言わんばかりだった。



Title:誰そ彼
だからたまらなく会いたかった

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