午前の仕事がひと区切りついたので、わたしは午後への英気を養うために休息をとっていた。王宮の外へ一歩踏み出せば、潮風に吹かれる街並みが広がっている。わたしは潮の匂いが最初はとても苦手で、外に出ることは極力避けていた。けれどもここに住まう以上、潮の匂いに慣れないままというわけにいかない。そんなこんなで時間が経つと、すっかり体に馴染んだようで気にならなくなっていた。 賑やかな声が耳に届くと、わたしの表情は自然に緩む。この国は国全体が、王が、温かい。国民たちの笑顔も絶えない。この風景を見ながら、飲み物を一杯。そうすることがわたしの休憩時間の過ごし方だった。 王宮の方で鳥の甲高い声が聞こえたので、振り返ってみると廊下を慌ただしく走り回る人々が見えた。その中には政務官様も居て、わたしは自分の手に目を落とす。未熟者の手には負えない仕事をこなす人が目の前を走っていくのに、わたしはこんなにのんびりと過ごしていいのだろうか。でも、実際仕事はまだそのレベルに達していないため、その辺りの仕事を手伝うことは出来ない。断じて、だ。 「なら…わたしができることは、」 政務官様に褒めて頂いた、わたしの特技がひとつだけある。昔からそれだけは母に厳しく教えられたもので、勝手に身についていたものではあるけれど。今となってこの特技をお披露目することが出来ることを考えると、親の構えたお店と仕事には大感謝である。 与えられた部屋に戻ったわたしは机の上に散らかったままの書類を片付け始めながら、政務官様にその飲み物を持って行ったときのことを思い出していた。あのときの政務官様は目を丸くして、一言わたしに感謝の言葉を述べたのである。今でも忘れない。最初に持って行ったときのことは。 その日からわたしは王宮の中の様々な人々に自慢の腕を振るっては、飲み物を配達するようになっていた。勿論、その飲み物が苦手な人も中にはいるので、代わりになる飲み物を用意したりと自分の技の幅を広げていったものである。 「早く持って行ってあげよう」 ドリッパー、サーバー、カップ、ソーサー、スプーンを棚の中の定位置から取り出しては片付いた机の上に並べた。飲み頃の温度に抽出するために、温めておく方がいいと教わったため、お湯を用意するときに一緒に温めるのだ。お湯の理想的な温度としては95℃くらい。タイミングを逃すことのないように一瞬たりとも気が抜けない。 「その間にペーパーフィルターっと」 温めておいたドリッパーに軽く押さえつけるように力を入れて、セットを完了させる。同じ材料を使うにしても、ここからの淹れ方でまた大きく変わってくるため、一層気を引き締めて臨まなければならない。次の工程は「蒸らし」という作業だ。このままフィルターに粉を入れて、お湯を注ぐだけでも十分に作れるのだが、こんな小さな所にも拘る必要がある。わたしは沸騰して丁度良い温度のお湯を少しだけ注いだ。少しの香りが鼻をつく。この瞬間がわたしは一番好きだったりする。ほんの少し香るのだけれど、それでも細々とした工程で美味しいものが出来上がる初めの一歩のような気がするのだ。美味しい成分を十分に引き出すための工夫なので欠かせない。 そして仕上げはお湯の注ぎ方だ。中心で小さく螺旋を描くように注いでいくのだが、ここでも一気にお湯を注ぐことなく、少しずつ様子を見ながら注いでいく。たかがこの一通りの工程だけれど、丁寧にこなしていくことで良いものが出来る。 それと大切なのは気持ち。飲んでもらう人のことを考えたり、どんな気持ちになって欲しいかなんて考えてみるだけで味は変わってくるものだと母からのアドバイスだ。 「出来た!」 ちらりと時計を見ると、針が示していたのは政務官様がいつもお休みになられている時間で、わたしの休憩が残り少しとなった時間だった。わたしと政務官様の休憩時間はほんの少ししか被ることがない。でも、そのたった少しの貴重な時間こそが今のわたしにとっては幸せな一時なのである。 政務官様の部屋の扉をトントンと軽くノックすると、どうぞ、と優しい声が聞こえた。政務官様は怒るととても怖いと有名な方だけれども、普段は温厚で世話焼きの素敵なお方。 「あの、コーヒーいかがですか」 「ちょうどいいところに。貴女にコーヒーを頼もうと思っていたところですよ」 政務官様は自分の机をトントンと叩き、わたしに合図をする。その合図に従って、トレイの上のコーヒーに細心の注意を払いつつ、ゆっくりと前へ進んだ。コーヒーを片手で持つと、書類に気をつけながら手を下ろす。湯気はほんわりと鼻をくすぐったようで、政務官様が手をパタパタと仰ぎ、深呼吸したのが分かった。 何も言わない政務官様はカップに手を付けると、もう片方の手でそっと支えて喉をこくりと動かした。優雅な一連の動きで、わたしはぼーっと見惚れていることに自分で気付かない。 「…落ち着きます」 口に入るまではちょっぴり緊張していたけれど、政務官様の口からお褒めの言葉を頂いたので安心したわたしはほっと胸を撫で下ろした。同時にかたん、と椅子から政務官様が離れた音がして、自分が何か仕出かしてしまったのではないかと不安に襲われる。忙しなく揺れる感情に自分が追いついていかない。 「名前」 「は、はい」 政務官様を目の前にして、わたしはぎゅっと目を瞑った。頭も少し下げた。罵声を浴びさせられるのだろうか。何時ぞや見た、シンドリア王に対してのあのお叱りよう。頭の中に走馬灯のように駆け巡る光景に息を呑むしかなかった。 「よく出来ました」 降ってきたのは優しい声と、温かな手のぬくもりで。 わたしは冷え切った両手で自分の頬を必死に冷まそうとするしかなかった。 Title:さよならの惑星 |