*社会人設定



早く大人になりたいとずっと思っていたけれど、実際に大人になると子どもになりたいと思ってしまうことが多々あった。学生時代に勉学に勤しみ、部活に熱中し、遊びを全力で楽しんでいた頃が懐かしく思える。それに大学生なんて、ほんの少し前までの話だ。ゆったりとした生活の中で自分のすきなことばかりをして毎日を過ごしていたなあ、なんて。
新生活に慣れるまで時間は掛かったし、何より自分に与えられた仕事で手一杯。自由な時間を有意義に過ごすことが出来ずにいた。やっと慣れてきたなと思い始めたのは最近のことで、次の日が休みのときは決まって仕事帰りにそのまま彼の家に入り浸るようになっている。迷惑そうな顔一つせずに玄関のドアを開けてくれるし、家主が不在でもわたしが部屋に入ることが出来るように合鍵まで渡されていた。なるべく依存しないようにと心がけていたけれど、やっぱり心の支えは必要なもので今日こそは家に直帰しようと会社で決心しても、足が勝手に此方へ向かってしまう。
インターホンを押すと、名前か、という声と共に今日もドアが開いて、彼が顔を覗かせる。この光景にも慣れてしまったけれど、会社で働いていた社会人から一変して彼に甘えてしまうただの女になってしまうのだった。



「ごめんなさい、また来ちゃった」
「名前はいつものことだろ」
「…えへ」
「そんな顔しても俺は甘やかさないぞ」



男心を擽るのは苦手なわたしだけれど、彼がこの表情に弱いってことは家に通いだしてから分かった。困った顔で頼れる貴方に助けて欲しいの、という感じを前面に押し出すと、口では拒んでいても、最終的にはどうなるかというのをわたしは既に知っている。中学、高校時代に主将を務めていた彼はきっと頼られることに慣れていると思うと同時に、ほっとけない性格なのだろう。困っている人が居ると、手を伸ばす。そして一緒に悩む。けれど、自分の悩みは誰も相談せずに抱えてしまいそうだ。誰かがその悩みに気が付いて、話を聞き出さない限りは喋らない気がする。
靴を揃えて、家に上がったわたしは彼の背中を見ながらそう思った。大きな背中に抱えたものを下ろすことだって必要なことなのに。わたしばかり甘やかされるなんて、だめ。決して大きな部屋と言えないけれど、この空間は確かに彼とわたしのものだけで、足を踏み入れたらひどく安心してしまう。



「…こっちおいで、お疲れ様」



合図のように木霊する言葉はわたしを彼が座るベッドの横へ導く。緊張して歩き方がおかしいわたしのことを彼は変な奴、と笑った。柔らかいベッドに腰掛けると、彼の腕が背中に回ってくるのが分かって、わたしは咄嗟に目を閉じる。



「怖かったか?」
「び、びっくりしただけ」



ゆっくりと開いた目に映るのは彼の鎖骨辺りで、顔は見えなかった。回された手が背中を這うように動くので、くすぐったい。身体を動かすと薄いカーディガンはするりと脱がされ、ベッドの近くにあった椅子に掛けられた。冷房が効いていて、ちょっぴり肌寒いからカーディガンはあった方がちょうどいいのに。そう言おうとした瞬間に身体が浮いて、その場で抱き上げられたのが分かった。



「わっ」
「名前、俺いつも言ってる気がするけど、ちゃんとご飯は食べなさい」
「…お母さん?」



頭に当たったのは彼の愛用の枕で、白と黄色の間のような光を放つ照明がわたしの視界に飛び込んできたかと思えば、彼の顔がぐっと近くなって照明さえも見えなくなってしまった。不機嫌そうな表情をした彼はわたしの顎に手を添えて、くちびるを落とす。今日はいつもに増して手が早いなんて指摘したら今すぐでも食べられてしまいそう。



「母親はこんなことするわけないだろ」
「う、」
「名前に言われてちょっと傷ついた」
「ごめんね。でも大地くんはやっぱり甘やかしてくれるんだね」
「この状況でお前なあ…」
「大地くんも甘えていいんだよ」



身体をわたしに預けた彼は何か言っていたけれど、聞き取れなかった。それよりも全体重がのしかかってきていて、苦しいし潰れてしまいそうだと叫びたい。十五秒ほど独り言を零した彼は急に身体を起こすと、ベッドから離れて行った。拍子抜けしたわたしの耳には冷蔵庫を開ける音が届く。



「名前、アイス何がいいー?」
「チョコ!」



普通に答えてしまったわたしは何事も無かったかのようにベッドを降りるとテーブルの前に座った。ひんやりとした冷気を放つアイスを二つ持ってきた彼はテーブルを挟んで前に座ると、バニラ味、チョコ味と書かれた袋を破る。自然な様子で、さっきのことが夢のように思えた。
チョコ味のアイスを受け取ったわたしは溶けて流れてしまいそうなそれを舌で素早く舐めとる。新調したスカートに溢すわけにはいかないのだ。棒アイスを彼が持っていると、小さく見えてしょうがない。元々棒アイス自体も小さい物なのだけれど。



「名前」
「んむ?」
「あんまり無防備に誘うんじゃない。抑えられないだろ」



棒アイスの木の部分を思いっきり噛むと、綺麗に折れた。口の中に残った欠片を吐き出すと、手に持ったままの片割れと一緒にゴミ箱に放り込む。
大地くんだって甘えてもいいのに、と言ったくちびるはまた塞がれた。


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