夜は真っ暗で怖い。でも夜は静かで安らぐ。だから好き。見方を少しだけ変えるだけで、好きになったり嫌いになったりする。わたしにとって恐ろしい一面もあれば、優しい一面があるということだ。夜を例に出したけれど、人間にも言えることだとわたしは思う。
そう、例えば今見張りの時間を担当している彼とか。わたしは担当の時間ではないので、本当は休息を取るために寝ておかなくてはならないのだけれど、火の番をしている彼の目を掻い潜って湖まで来ていた。眠れないのだから仕方ない、なんて自分で勝手に理由を付けて。野営地の近くとはいえ、イミテーションが襲ってくる可能性だって充分にある。あれほど仲間たちから毎日のように一人行動は慎むようにと注意を受けていたけれど、わたしだって一人になりたい時間はあった。まさに今がそう。リスクを承知で抜け出してきているのだから、もし怪我をしたとしてもそれは自分のせいだ。
ポチャン、と水に足を浸ける。手入れがなされていない草が地に付いた手にチクチクと刺さるようで擽ったい。ひんやりと冷たい水は爪先まで染み渡るようで、わたしを湖の底へと誘っていくようだった。戦いに身を置くわたしたちは日頃から傷つき、敵を殺し、すっきりとしない気持ちに苛まれている。使命だと言い聞かせても、つい逃げ出したいと思ってしまうことは幾度となくあった。今だって、逃げ道が見えたのなら尻尾を巻いて脱兎の如く逃げ出してしまいたい。それでも逃げないのは仲間が居るから。
でも、この湖と一つに溶けてしまえば、そんなことを考えずに楽になれたりするのかな。両足を軽く動かすと小さな水飛沫が上がる。水面に映っていた月はユラユラとその姿を歪め、まるで彼が怒りの形相を見せているような気がして背中に寒気が走った。自分を傷つけるようなことを考えたのが見透かされたようでわたしは目をゆっくりと閉じる。



「名前」



突如呼ばれた名前に肩を揺らすと、また水飛沫が上がって自分の顔に思いっきり掛かった。顔を冷やすのには充分で、思わず大きなまばたきを一回、二回。顔だけ声のした方へ向けたけれど、声の主は大体想像がついていた。怒られるのかな。



「単独行動は慎むようにって、何度も言ったよね」
「う…」



彼の正論に言い返すことが出来ないわたしは言葉を詰まらせた。冷え切った足を草むらの上にあげると、身体全体で彼の方へと向き直る。自分に非があるのは間違いないのだから、ここは構えを低くして臨まなければならない。仲間が注意してくれているのはわたしのことを考えていてくれる証拠なのだから。それを破ったわたしは目も当てられない。



「君が一人になりたいと思ったんだろうなってことは察したよ。気持ちが分からないわけでもない。でも、危険なんだよ。まだ大きな被害に遭っていないから分からないだろうけど、何かあってからでは遅いんだ」
「セシルの言う通りです…」
「一人になりたいことが悪いこととは言わない。でも、誰かに声を掛けるくらいは出来るでしょ?何も言わないで居なくなるのが一番いけないことだと僕は思うよ」



隣に腰を下ろした彼は湖よりもっと遠くの物を見つめているような眼差しをしていた。わたしよりもずっと大人で、仲間たちからも頼りにされる人。子どものような駄々を捏ねるわたしの考えを真っ向否定しないところがそう思わせる。大人なんだ、彼は。
ふと、視線を落として頭を過る一つの考え。彼はどうしてわたしがここに居ることを知っているの。誰にも言わずに抜け出してきたはずなのに。



「名前、テントから抜け出したこと、僕が気づかないとでも思った?一応、元の世界でも鍛えてきているんだからね。騎士を甘く見ないで欲しいよ」



気づかれないように抜け出せたという達成感に浸ることが出来ていたのは、わたしの思い込みのせいだった。元の世界でも常に戦いに身を置いていた彼らのことだから、微かな気配でも察知することは可能らしい。彼がそう言っているということは、きっと野営地に居た他の誰かも気づいている人がいるに違いない。
わたしは大した能力も持っていない。自分の両手を見ながら溜め息をついた時、肩に手が触れた。わたしの手では勿論無いので、彼の手だろう。怒鳴りつけてもいいのに、彼はどこまでも穏やかで優しい、男の人。



「悪い子だ」
「えっ」
「僕たちが警告しているのにちっとも聞いてくれないのだから」
「…ご、ごめんなさい」



向き合ったわたしの両肩に手を何時の間にか置いていた彼はぐいっと引っ張った。力を入れていなかったわたしの身体は彼の胸へ自然に倒れ込む。遂に声を荒げて怒られるのではないかとビクビクしていたわたしからすれば予想外の出来事だった。
少しの間を置いて、何も言わずに身体を離した彼はわたしのおでこにそっと触れながら口元を綻ばせる。ぐしゃぐしゃに乱れた前髪を軽く上げると、緩んだくちびるを寄せた。ぴったりとくっついた感触はなんとも形容し難いもので、硬直してしまったわたしを見て、彼は満足気に再度笑みを浮かべる。



「悪い子にはお仕置き、って決まりだからね」



立ち上がった彼を目で追いつつも、顔を見ることは出来ないで居た。足が動かないから立ち上がることすら、ままならない。冷えた筈の爪先はわたしの思った以上に熱を帯びていて、そそくさともう一度湖に足を浸けた。熱い、爪先は一向に冷えることを知らないようだったけれど。


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