今日の波は穏やかで天気も良好、悪いことなんて起きそうに無い。生きている中で楽しいことも嬉しいことも泣きたいことも辛いことも次々にやってくる。わたしの日課はベッドで目覚めてから窓越しに見る海の情景を楽しむことだった。波が荒れている時はそれと共鳴するかのように悪いことが起きることが多く、今日のように穏やかな波の時には幸せな出来事を運んできてくれるのである。カモメの甲高い鳴き声を耳にしたわたしは自分の店へと向かった。といっても、この先は店の範囲、手前は家の範囲と勝手に考えているだけであり、家の一部を店にしているのである。
閉めていたカーテンを勢いよく引けば、強い光が差し込んできて思わず目を閉じた。眩しい光は今まで暗闇の中に居たわたしにとっては刺激が強すぎる。店の中に日光が差し込むようにした後は簡単に朝食をとって、開店準備を始めた。グランシップには一ヶ所しか無いこの花屋は連日様々な人々が花を買い求めに訪れる。海に浮かんだままの時には少なかった花の種類も、今となっては種類が格段に増えた。なぜなら、この船は世界中何処へでも行くことが可能になったからである。空を翔けるなんて夢にも思っていなかったのに、今でも信じられない。



「やあ」



世界へ展開する一流の花屋になることをその頃から夢見るようになっていった。花は環境によって咲く物が異なるし、世話することも難しい物だってある。だからこそわたしは世界を翔けることが出来る、このグランシップで世界中に花を届けたいと思った。実現不可能では無い。わたしには翼があるのだから。



「まだ開店準備中です」
「毎日開いているけど、休みは無いのかい?デートにでも誘おうと思ったんだが」
「忙しいんです」
「…う、うーむ」
「リングアベルさんがお誘いに来てくれただけで充分ですから」



ティズさんの仲間の一員であるこの人の名前はリングアベルさんと言う。彼はグランシップがまだ空を翔けることが出来ないうちから、この花屋を訪れては同じ台詞を繰り返していた。わたしの店は休みを決めていないので、用事が出来た時にしか休みを取ることはしないでいる。それに休みを取ったからといって、別段やることも無いので店で働いていた方がよっぽど楽しいのだけれど。花の図鑑を眺めて、この花はどこでよく栽培されているのか、どうやったら上手く世話をすることが出来るのか、ということだって結局は仕事に結びついていることなのだから休みらしい休みでも無かった。
リングアベルさんは困ったように首を傾げると、腕組みをしながら唸り始めた。わたしはその横を行ったり来たりして開店の準備を構わず続けている。わたしは今日、店を休みにする気は更々無いので、リングアベルさんには毎度のことで悪いけれど諦めてもらうしか無かった。そのうち、イデアさんが回収に来ることは目に見えて分かっているのでその時を待つのみ。



「名前ちゃんはどうしてそんなに働くのかい?」
「楽しいからですよ」
「でも休みたいこともあるだろう?」
「うーん、楽しいからそんなに休みたいってことはありませんね」
「…そ、そうか」



隅にあった花の花弁を指でなぞると瑞々しさが伝わる。最近、この花の世話が難しいなあと感じていたところ、アニエス様が別の花屋から聞いてきた方法を試した効果があったらしい。上手くいったことが嬉しくて、しょうがなかった。



「その顔…良いことがあったのか」
「ええ。アニエス様と花屋さんに助けられました」
「名前ちゃん」
「だから、何度も言うようですけど今日は休みではないのです」
「…お返しだ」
「はい?」
「君のその健気に頑張る姿へ世界からのお返しさ」



目の前に差し出された花束に言葉を失う。これは、わたしがまだ手に入れたことの無い花で、この花が生息する周辺は凶暴な魔物たちが潜んでいると図鑑で読んだことがある。戦闘能力が皆無なわたしは絶対に取りに行くことの出来ない花で諦めていたのだ。わたしの夢には必要だと思うけれど、存在は幻のようなものにすぎない。その花が、今、わたしの目の前で海風に揺れている。
差し出したリングアベルさんは世界を護るためにずっとティズさんたちと旅をしていると聞いている。だから腕が立つ。数々の魔物と戦っており、激戦を潜り抜けてきた強者なのだから、この花の周りの魔物なんて相手にならないのだろう。端正な顔には傷ひとつ、付いていない。それでも危険な場所に足を踏み入れたことには間違いなかった。



「嬉しいのだけれど…無茶はしてはいけませんよ」
「君の喜ぶ顔が見たくてね」
「…あの、」
「なんだい、名前ちゃん」
「デートの件、少し待って頂けませんか」
「勿論さ!」



受け取った花の香りはわたしの知らない、今まで嗅いだことの無い、匂いがした。


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