呼び出されたわたしは主任の部屋の扉の前を右往左往していた。今回の計画においてミスが目立ったのだろうか、それともわたしが把握していないだけで粗が見つかったのだろうか。どちらにせよ、主任から呼び出しが来ているとなればお説教が待っているに違いない。他の部署で働いていた時もそこの主任から何度も呼び出されて叱られたことか。しかし、今回はトップグループの主任なのだ。格が違うとも言っていい。ミスは全体に響くのだから致命的なのである。充分理解をして毎日緻密な作業をして慎重に進めていたのだけれど、欠損があった。作業の過程よりも求められるのは結果。それに今は時間の猶予がない。きっと、そんな部下はいらないと主任が決断されて、相応の罰、最悪の場合は解雇ということもあり得る。主任の部屋の前を通っていく人々に変な目で見られているのは分かっていたけれど、じっとなんてしていられなかった。 「名前?いるの?入ってきてよ」 「…主任」 部屋の前は人が通ると言えども、人通りは少ない方だ。僅かな物音でも主任には聞こえているのだろう。先程からのわたしの不審な動きもきっと把握されていたに違いない。落ち着かない足音にしびれを切らせて、わたしの名前を呼んだのだろう。 丁寧にゆっくりとノックをしたわたしは焦燥を通り越して冷静になっていた。主任が与えられる罰を大人しく受けよう。また、これから頑張ればいいじゃない。そう自分に言い聞かせていると、主任の優しい声がわたしを招く。優しいけれど、きっとこれから告げられる言葉は残酷なのだ。自動で開いた扉の先には椅子に腰掛けた主任が構えている。ドアを通り過ぎて部屋の中に入れば、閉じ込めて逃げられなくするように鍵が掛けられる。後ろを振り向いて、逃げ場を本当に失ったことを確認したわたしの顔を見て、主任が焦ったように喋り出した。 「ど、どこか具合が悪いの?」 「いえ…。ただ、自分が愚かだと」 「僕は別に名前に酷いことをしようなんて思っていないよ」 「主任が酷いことなんてするわけないです!わたしのミスで叱らなくてはならなくなったのでしょう?本当にごめんなさい。主任は優しいから怒ったりしたくないはずなのに…」 わたしが胸の内を曝け出すように言葉を綴ると、主任は部屋に響くくらいの大きさで笑い始める。微笑を浮かべる主任の姿であれば、会議などで見かける機会は何度もあったけれども、声を上げて笑う主任を見るのは初めてだった。責任を背負った青年であるはずなのに、この時ばかりは無邪気に笑う少年のようで、わたしはその表情に引き込まれてしまう。目が離せない。主任ってこんな顔もするんだ、なんて思っていると突っ立っていたはずのわたしの身体が急に傾く。自分の意思ではなく、何かに引っ張られていくようだった。すぐさま自分の元の位置に身体を戻そうとするが、強い力に引かれてしまって女であるわたしの力ではどうにもならない。そこでようやく、自分の腕が主任に掴まれていることに気づく。普段は会議でしか顔を合わせず、おまけに近くの席に座っているわけでもないので主任のこんな近くにいることが新鮮で、どこか気恥ずかしかった。マイクを通して発言をしたとしても、主任から返ってくるのはその意見に対する答えと微かに見える頷きだけで、表情さえロクに見えない。 主任の顔も身体も、全部がとても近い。自分のパーソナルスペースに入り込んできているというのに不快感などは一切なかった。一瞬だけ主任の身体に触れたかと思えば、壁際ギリギリまで追い詰められていることにすぐに気づく。最初から逃げ場なんて存在していなかったのだけれど、これで更に可能性はゼロに近くなった。主任を振り切って逃げるなんて出来ないに決まっている。遠くからしか見たことのない主任の長くて、細い指がわたしの顎を持ち上げた。主任の瞳に捉えられたわたしはどんな顔だったのだろうか。自分のことなのに、それすら分からない。目を細めるように笑う主任は、テレビの中で活躍するような俳優のようで研究者とは思えない程の演技っぷりだ。きっと、わたしを弄んで楽しんでいるのだろう。日々研究に追われる主任の息抜きとして。 「ねえ、名前。ここまでしても、あなたは気づかないの」 「主任がわたしで遊んでいるってことですよね」 「鈍感なの?僕はあなたに好意があって、こうしているというのに」 顎に触れていた指のうち、一本がわたしのくちびるへと辿り着く。確かに弄ぶにしては本格的だなあなんて考えていたけれど、これではまるで恋人として時間を過ごしているようではないか。好意、なんて言葉が聞こえたけれど言葉の綾というようなものだろう。主任はこれから叱るわたしのことを一度持ち上げて落とす作戦なのだ。これまで主任の仕事に携わってきたわたしの勘だけれど、策士に間違いない。早く、わたしの悪いところを指摘して、この部屋から追い出して欲しい。 「名前、あなたを僕のものにしたい」 「主任?何を言って」 「そのままの意味だよ。あなたが好きだから、欲しい」 真剣な表情で言うものだから、わたしは疑う余地さえ失ってしまった。本気だとばかりに主任がわたしに触れているところに力が入ったのが分かる。部屋から逃げ出せないと思っていたが、本当に主任からわたしは逃げられないらしい。自覚をすると急に顔に熱が上るのが自分でも分かった。女の勘というものはやっぱり当たるもので、主任は策士に間違いないと改めて思う。獲物を捕らえたことを喜ぶ主任の後ろで白いカーテンが風に靡かれて、ゆっくりと揺れていた。 |