夜風が身体をすり抜けていく。冷たいけれど、温泉に入って火照った身体を冷ますには最適だった。季節が冬だとそんなわけにもいかないのだけれど、今の季節ならば綺麗という一言で片付けることの出来ないくらい美しい月の下で女の子に声を掛けることにも難がない。だって、寒かったり暑かったりしたら女の子たちは外に長い時間滞在することを嫌うでしょ。女の子のことならなんでも把握している僕にとって、相手を気遣うのは当たり前。マークス様に今日の報告は済んだし、一人くらい声をかけてもきっと許されるだろうと考えた僕は辺りを見渡した。すると、視界の中で月光によって白と黒のコントラストが煌めいている素敵な女の子が目に入る。風が少し吹く度、彼女が足を進める度、フリルがふわりふわり、と揺れた。



「お嬢さん」
「は、はい?」
「僕と夜のお茶会でもどうですか?」
「…わ、わたしですか!?」
「僕が話をしているお姫様は君しかいないよ」



マークス様をはじめとして王族には必ず世話をするメイドや執事がついている。彼女の所属がどの王族の下なのか僕には分からなかったけれど、少なくともマークス様のところではない。マークス様のメイドさんに声を掛けたとなれば、彼の耳に僕の軽はずみな行動はすぐに報告されるだろうし、何か罰が下るかもしれない。マークス様のメイドさんではないことを確認することが出来た僕は次々と誘い文句を口から吐き出した。ちなみにこれで上手くいくことは経験上ほとんどない。女の子の方から断りを入れられたり、無視されたりとフラれてしまうことが大半だ。今日は女の子から反応が返ってきただけ良い方だろう。さて、この後はいつも通りかな。驚いたり、慌てたりと表情をコロコロと変える彼女の返答を待った。



「あの、わたしでよければ…!ぜひ!」
「えっ」
「あの…?」



期待に溢れた瞳は僕に眩しかった。今までに数えきれない程の女の子たちに幾度となく声を掛けてきたけれど、こんなにスムーズに事が運ぶなんて記憶にない。途端に冷や汗が噴き出る。なぜなら、想定外だからである。小動物が待てと言われて忠実に言いつけを守っているような様子で彼女はじっと僕を見つめていた。君の瞳に吸い込まれてしまいそう、という口説き文句を何度も女の子に対して使っていたけれど、まさにその通りのことが今起こっている。視線を少しずらしてみれば、彼女の向こう側に見える空は雲一つなく、月と星がダンスを踊るように光っていた。曇りのない空はまるで陰りのない彼女の瞳とそっくり。



「そ、そんなに見つめられたら、恥ずかしいよ…!」
「ご、ごめんなさい、ラズワルド様」
「僕の名前、なんで?」
「マークス様の臣下でいらっしゃるラズワルド様のことを知らない方などいません」
「そ、そっか」
「わたし、ラズワルド様からお声を掛けて頂くなんて夢のようです!」
「僕でいいの?」
「わたしの台詞ですよ」



お茶会に誘ったのはいいけれど、良い場所なんてちっとも考えていなかった僕は目的もなしに歩き始めた。鳥すらも鳴かない静けさに包まれた夜の中、僕の足音に続いてもう一つ足音が聞こえ始める。最初は足音の聞こえるテンポが早かったもののだんだんと僕のテンポに近づいてきた。気がつけば、彼女は遅れないように隣を歩いている。女の子を連れて歩くことに憧れを抱いていたはずなのに、どうしてこうも緊張しているのだろう。手を繋いでくださいませんか、なんて言われたらどうしよう。意識すればする程、手汗は酷くなるばかりだ。言葉を交わさない僕たちに聞こえるのはお互いの足音だけで、何かを話そうとしても口を開いては空気だけを無意味に噛みしめる。それを繰り返していた。誘った女の子とどんな風に会話をすればいいのか。目を合わせて話すのが紳士の基本なのに僕はそれが非常に苦手でしょうがない。恥ずかしいという感情がどうしても他の感情より圧倒的に大きく、勝ってしまうのだ。ちらりと彼女の横顔を見やれば、僕が適当に進んでいる方を向いて嬉しそうに笑っている。その笑った顔が母さんを思い出させた。



「ラズワルド様?どうかなさいましたか」



僕の視線があまりにも刺さるようなものだったかもしれない。気づいた彼女は瞳をこちらに向けていた。目と目が合うことが恥ずかしくて堪らないけれど、今この瞬間逸らしては負けだと思う。女の子を傷つけてしまうことに繋がるかもしれないから。砂で出来たお城のように繊細な生き物によく考えずに触れてしまうと壊れてしまうように、傷つけるという行為は簡単なものなのだ。今の状況をしっかり捉えて僕がすべきことは一体何か、それを見定める必要があった。例え、僕が苦手だと思っていることでもすぐに逃げ出すという選択肢を軽率に選んではいけない。



「な、なんでもないよ」
「そうですか?少し焦っているように見えましたが」



完全に見抜かれてしまっているようで、完璧な紳士を演じようとすることはそこで諦めた。僕の想定外のことばかりが次々と起こっているものだから、上手く対応が出来ずに参ってしまっている。
僕と彼女の声以外は虫の声しか聞こえない。誰にも見つかることがないだろうと思った僕はその場に腰を下ろした。座って、と彼女に声を掛けようとして一つ気づく。僕はまだ彼女の名前を聞いていない。彼女はメイド服の裾を人差し指と親指で軽く摘んで持ち上げると、僕と少し間を空けて座った。ほんの数秒、まるで宙を舞うようにフリルが空中を泳ぐ。



「ラズワルド様、わたしの名前を聞かないのですね」



身体を突き刺されたような感覚に襲われた。僕は早いうちに素性が明らかになっていたけれど、何も知らない彼女のことを明かそうと微塵も努力をしていない。それはまるで興味を持っていませんと言わんばかりである。彼女は小さく笑っていたけれど、その瞳には先程の光は灯っておらず、光を奪われ失ってしまったようにどんよりとした闇の色が灯っていた。僕自身が灯したはずの蝋燭の火を吹き消してしまったよう。僕が彼女にそんな表情をさせているのかと思うと、自分のみっともなさに呆れることしか出来ない。何をやっているんだ、僕は。彼女の悲しい顔を見るために誘ったはずでは決してないのに。



「…ごめんね、実は君が了承してくれるとは夢にも思っていなくて。自分でも混乱しているんだよ」
「ラズワルド様が?」
「そうなんだ…本当にごめん、名前を尋ねなくて」
「…ふふ」
「どうして笑ってるの?」
「ラズワルド様って女の子の扱いに慣れていらっしゃるとばかり思っていたので」
「実はそうでもないんだよ。ねえ、名前は?」
「名前、といいます」



今、この名前ちゃんとの間にある空間が非常にもどかしく思えた。でも、事を整頓出来ていない僕にはまだこの距離を詰める資格を与えられていない。僕に誘われてやって来た蝶々のような彼女を網で捕まえることなんて許されていないのだ。加えて、僕は彼女を捕まえるための上等な網を用意出来ていない。傷一つ付けることなく、この手に収めるにはまだ足りないものが多すぎる。それに、名前ちゃんは僕のテリトリー内に完全には入っていないのだ。傍に来てくれただけで、まだ手の届かない範囲でパタパタと羽を優雅に動かして自由奔放に飛んでいる。時間が経てば、違う花を見つけて僕の元を去って行ってしまうかもしれない。待っているだけでは絶対に手に入ることのない蝶に違いなかった。名前ちゃん、今から頭の中を整頓して作戦を練るから、少し時間をちょうだい。




ALICE+