*「アクアリウム」の続き



夜、目を閉じて浮かぶのは最後に貰ったプレゼントと、本気だと揺るがない瞳を見せた大地さんだった。自室にある、袋から出された箱の蓋は中途半端に開いていて、イルカが少しだけ顔を覗かせているはず。帰宅してから箱の中のイルカには触れられないでいるので、最初に置いた場所にあるままだ。ちょうどベッドに寝転がって目に付くような場所。瞑った目を恐る恐る開いてみれば、自分の予想通りでイルカはただじっと此方を見ているだけで、何も言わない、動きもしない。当たり前のことなのだけれど、それがなんだか辛かった。静かな空間に放られてしまうと、大地さんと過ごしたあの時間が脳裏に蘇る。物音一つしない自室に篭っていても余計に考えてしまうだけであるから、早く朝を迎えてどこかへ飛び出して行きたい気持ちでいっぱいだ。カーテンの隙間から零れる月光は妙に眩しくて、わたしの安眠を邪魔しようとする。お願いだから、早くわたしを何も考えなくていい眠りの世界へと誘って欲しい。まばたきをひとつすると、わたしはベッドのすぐ傍にあるイルカへと手を伸ばす。届かない距離ではなかったので、感触の良いふわふわとしたものが手に触れた。優しく、ゆっくりとその柔らかい物を掴むと自分のベッドの中に引きずり込む。狙った獲物を逃がさないとばかりに捕獲するような生き物と同じようだ。大地さんの前で触れた以来に触ったイルカは変わらぬ感触でわたしを迎える。勘違いしてもいいよ、なんてずるい言葉だと思う。イルカを包み込むように抱きしめると、わたしは瞳を閉じた。俺、本気だからと言われた時と同じようにわたしは彼に貰ったプレゼントに顔を埋めて、小さく呟く。



「すき…」



あの日、この言葉を大地さんは口にしなかったけれど、わたしにも分かるくらいに好意をほのめかせてきたのだから本当にずるい。わたしのために買ってくれたイルカに言ったって、返事は無いのだけれど、言わずにはいられなかった。大地さんは素直にわたしが受け取っていたら、どんな風に接して、どんな言葉をくれたのだろう。線引きをして壁を作ってしまったのはわたしの方なのに、本当に近づきたかったのはわたし自身だともう気づいていた。胸の中で大人しくしているイルカをベッドの端に置くと、わたしはその反対の端に身体を動かして、目を閉じる。触れることは簡単なのに、手を伸ばすことが怖い。距離を置くことも簡単なのに、そうしてしまうことは怖い。わたしは一体、どうしたらいいの。







「スガさん」
「ん?」
「ここのところはどうしたらいいですか?」
「あー、それは大地の方が詳しいから、大地に聞いて?たぶん部室にいるからさ」
「…う、はい」



部活の練習が終わってから、練習メニューを作る時に必要な情報を紙にまとめているときにどうしても自分だけでは分からない所が出てきて、冷静に判断をしてくれるだろうと思ったスガさんに尋ねた。彼には大地さんに尋ねるように返されてしまったわけだけれど、本当はわたしも彼に尋ねる前に分かっていた。この相談をするのに適任であるのは部長であること。けれど、水族館での一件があってからというもの、わたしは意識的に大地さんと二人だけになることを避けていた。言葉が口から出る前にシャボン玉が弾けて消えてしまうように無くなってしまうので、会話にならないはず。大地さんに迷惑をかけるだけだ。それでも、わたしの手の中にあるこの用紙は完成させなければ、部の皆に迷惑をかけることになる。個人の感情で部全体に迷惑をかけるわけには絶対にいかない。ふう、と大きく息を吐き出したわたしは体育館の扉を飛び出して、部室に向かってただひたすら走った。もう、何も考えずに走り続ける。部活終了の時間であるため、部活生が今日の振り返りを話したり、明日のことを話したりしている横をすり抜けていく。
明日、わたしはどんな顔をしているんだろう、なんて考えた時、もう部室の扉の前。ずっと走っていれば、もう何も考えずに済んだのかな。息を整えながら見上げた夜空のお月様はまんまるだった。



「あの、入ってもいいですか」
「ああ」



扉越しに聞こえたのは先程まで部活で大声を張り上げて、皆を鼓舞していた力強い声色ではなく、あの水族館の時にわたしと喋ってくれた時とそっくり。部長としての彼も、高校生という一人の男である彼も、本当にすきなんだなあなんて思いながらドアを開くと、大地さんは部室の奥の方で座り込んで何かを読んでいた。雑誌から伸びるたくさんの付箋はきっと部活のために違いない。バレー雑誌に目を通す彼の瞳はキラキラとしていた。自分たちのチームがどんどん成長して、頂上へ上り詰めていくのが嬉しくてしょうがない、といったような表情で。部長はこうやって、部員たちを支えているんだなあって思った。常に新しいことを追求することは大切なんだよね。わたしは心の中の動揺を悟られないように大地さんの傍に行くと、紙を差し出した。その紙を数秒見つめる大地さんの横顔をずっと見ていると、わたしの尋ねたいことを理解したようで、わたしが手に持っていた鉛筆は抜き取られ、空欄にさらさらと書き込まれていく。用紙の空欄は大地さんの字で埋まってしまって、これでいいよという言葉と共に用紙と鉛筆が差し出された。あまりの早業に反応出来ていないでいると、大地さんがそっと笑う。



「名前ちゃん、俺のせいで困ってるでしょ」
「え、えっと…」
「ごめん。俺が困らせてるんだよな」
「あの、でも、わたし…」
「もっと困らせてもいい?って聞いても言っちゃうんだけどな」



申し訳ないような表情をしたかと思えば、意地悪をするような顔を見せるものだから、わたしは言葉に詰まる。大地さんってこんな表情もするんだ。間近で見たその表情はわたしの記憶に深く刻まれていく。そんな風にわたしの中にどんどんと入りこんでくるせいで、また夜眠れなくなるかもしれない。いつの間にかわたしと大地さんは横並びから向き合う体勢になっていて、わたしの背中は自然と壁についていた。前から迫る彼と距離を取ろうとして、後ずさりするしかないわけで。



「この前の水族館の時さ、やっぱり名前ちゃんのこと、いいなあって思ったんだよ。思わせぶりみたいにさ、俺の行動にいちいち反応してくれるし、写真撮るときなんかほんと俺の方が余裕ないってくらいだよ」
「…うう」
「それにさ」



部室の天井から注ぐ光が遮られたようで、わたしの視界は暗くなる。その代わり、大きな身体がわたしを覆うように近づいてきて、水族館の時よりもうんと近くに彼がいることが分かった。ずるい、ずるい、その言葉が心の中でぐるぐると渦巻く。思わず視線を下に落とすと、大地さんの少し笑った声が聞こえた。



「名前ちゃんが大地さんが一緒にいるので、って言ってくれたときは本当俺のこと見てなくて良かったと思った。見られたら恥ずかしい顔してた、から」
「それ、はっ、わたしも…」
「…あとさ、俺が勘違いしていいよ、とか本気だからとか、言った意味を名前ちゃんは考えてくれた?」



心臓が大地さんに聞こえてしまうのではないかと思うくらい、大きな音を立てた。夜考えているのはそのことばかりだって、きっと彼は知らない。鋭い所を突いてくる彼にわたしは最初から勝てる筈はないんだって再度認識させられた。途端に眩しい光が降り注いで、わたしの表情を明るみに映し出す。それは目の前の大地さんに思いっきり晒すことになった。慌てて、顔を両手で覆って隠そうとしたけれど、手遅れ。指と指の隙間からこっそり覗き見ると、彼はわたしから目線を外して、近くに置いてある新品のバレーボールの方を見ながら、髪の毛をぐるぐると手で掻き回しては唸っていた。



「そんな顔すると、自惚れるだろ…」



精一杯の反撃はこの瞬間だって、直感でそう思った。勝てる気は勿論無いけれど、この攻防戦で一回くらい反撃の狼煙を上げたってバチは当たらないはず。今まで大地さんに翻弄されっぱなしだったけれど、わたしだって。



「自惚れてもらって構いません…!」




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