昨夜、外向き用の服を選んでいたら寝るのが遅くなってしまったわたしは眠い目を擦りながら、布団から這い出てだらしのない格好で障子を開けた。差し込んできた光があまりにも眩しくて、慣れるまでに何度もまばたきを短い間隔で続ける。ようやく眩んだ目が馴染んできた頃、槍を振り回す少年の姿が目に入った。槍先の向く方向を目で追いかけて口を大きく開く。



「シノノメ兄様ー!」



片手を挙げて、勢いよく振り回すと柱に当たった。ぶつけた部分がジンジンと痛む。またひとつ痣を作ってしまうことになりそうだ。痣ひとつ出来ることはわたしにとって特に気にすることでもないのだけど、わたしの傷や痣を異様なまでに心配してくる人が居る。そう、今こちらへ駆けて来るシノノメ兄様によく似たわたしの父様だ。



「名前、いつまで寝ているんだ」
「兄様には関係ないことです!それよりも今日暗夜王国にお呼ばれしたのですよー」
「ふーん、で?」
「シノノメ兄様は暗夜のジークベルト王子と会ったことありますか?」
「ああ、あるぜ。名前は小さい頃に会ったことがあると思うが、さすがに覚えてねえだろうな」
「ジークベルト王子はどんな方なのでしょうか!」
「それは自分の目で確かめてこい」
「ええー。兄様みたいな方かしら…」



面白そうに笑った兄様は踵を返して、先程の場所へ戻って行った。とても気合いが入っているので、もしかしたら今日は父様が稽古をつけてくれるのかもしれない。父様は白夜王国を統率する王で多忙な毎日を送っている。出来ることは手伝いたいのだけれど、兄様よりも未熟なわたしが出来ることは本当に限られたことしか無く、父様はわたしに武器を持たせたがらない。兄様は毎日槍で鍛錬を積んでいるのだから、隣でわたしが剣でも槍でも斧でも振り回したり、弓を引いたりしても良いはず。父様の目を盗んで武器を引っ張り出しても、父様の臣下二人に見つかったり、タクミ叔父さんに武器を没収されることが多かった。兄様はわたしが武器を持つことに関して何も言わないので、彼らの目を掻い潜ってしまえば鍛錬を一緒に積むことが出来る。父様はサクラ叔母さんに癒しの術を習うのであれば許可しようとしか言ってくれない。シノノメ兄様は良くて、どうしてわたしは駄目なの。父様のいじわる、なんて大声で叫ぶことが度々あってヒノカ叔母さんと母様がよく宥めに来てくれた。母様は何でも挑戦してみなさいと言う器量の大きい人で、父様とは大違い。そんな二人がどうして一緒に居るのか、わたしには全然分からない。
自室に一回戻ったわたしはシノノメ兄様の姿をもう一度だけ覗き見した。的に向かって槍を振りかざす兄様は格好良い、自慢の兄様。自由気ままに生きているように見えるけれど、自分の立場をちゃんと弁えているから尊敬することが出来る。わたしはまだ、そんなに器用にこなせない。父様の言い分だって冷静になれば、何を意味しているかくらい分かる年だけれど、それを受け入れたくない自分がいつも心の中に居るのだ。



「でも今日は白夜王国の王女として恥の無いようにしなくちゃ」



白夜王国で作った暗夜風ドレスを身に纏う。着物を普段身に付けているので、少しくすぐったい。なんだか暗夜王国の王女になった気分で、裾を軽く持ち上げて会釈の練習をした。振る舞いから失礼のないように。と自分に言い聞かせても、やはり日頃からのクセというものは出てしまうようで気を抜いたらお転婆娘を表に出してしまいそう。ジークベルト王子が兄様のような方ならば、きっと笑って許してくれるかもしれないけれど、父様や暗夜王国のマークス王のような方だったら、きっと作法に口を挟まれるだろう。直接言わなくても、皮肉めいたような言葉で。想像しただけで背筋の凍る思いがした。







小さい頃に訪問したといっても、雰囲気でしか覚えていない暗夜王国は初めて来た感覚でいっぱいだった。翼をはためかせて優雅に空を舞っていた天馬に、地上に降りるように手綱を引くと、鳴き声を上げて静かに降り立った。天馬の乗り方だけは小さい頃から叩き込まれているのでこのくらいは容易い。入り口までゆっくり歩く天馬のたてがみを撫でながら、リズムの良い揺れに身を任せていると何やら人影が見えた。門に寄りかかっている人が居る。わたしが今日招待されていることは暗夜王国の王族をはじめ、城の者たちには知れ渡っているはずだろうから、衛兵が迎えにでも来ているのだろう。さあ、ついさっき練習した挨拶を披露するときだ。



「あなたが名前王女ですね」
「ええ。こんにちは」
「私はジークベルトだ」



右足を後ろに引き、膝を軽く折り曲げたところで思わず顔を上げてしまった。王子様が門まで出迎えてくれるなんて思っていなかったわたしは驚きのあまり、その場に固まってしまう。ジークベルト王子はそんなわたしを見て、小さく微笑むと普段通りに接してくれて構わないと言った。日頃のわたしで居て良いなんて言われても、素を見せるのは恥ずかしくてしょうがない。あんな姿を見せられない。しかも、兄様とタイプの違う王子様でいくつか予想していたパターン全てを外してしまっていた。暗夜王国のエリーゼ王女から頂いたという物語絵本が自室の本棚にあるのだけど、そこに描かれた王子様が飛び出してきたような方が今まさに目の前に。あの絵本を読んで、王子様と謳われた人と自分の兄様を見比べて全然違うなんて言った記憶が不意に甦ってきた。シノノメ兄様、どうしてジークベルト王子のこと、もっと教えてくれなかったの。



「私たちはあまり年も変わらない。そう硬くならないで欲しい」
「…あのっ、でも」
「さあ、名前王女、食事にでもしよう。私室に食事を用意しているんだ」
「ジークベルト王子」
「もしかしてもう昼食をとったのかい?」
「いっ、いいえ」
「良かった。私に着いてくると良い」



差し出された手は父様とも兄様とも違う、知らない、男の人の手。わたしは自分の手を見て、王子の手を見比べる。丸みを帯びた手と角ばった手が並んでいて、男と女の差が手だけでも明確に表れていた。王子の手の平にそっと自分の手を重ねて、思わずそっぽを向くと、名前王女は初心なのだな、という声が聞こえてきて優しく手が引かれる。兄様に手を引かれるときは結構乱暴に引っ張られるのに、ジークベルト王子は違う。導かれていくような、手のぬくもりに吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。歩き辛いヒールだって、王子に手を引かれたのなら、一瞬のうちに羽が生えたかのように足は軽く、進んでいく。手持ち無沙汰になっている手は空中をフラフラとしていたものの、最終的にはドレスの裾を軽く摘まむことで落ち着いた。今は王子様に手を引かれる姫を演じることが出来ているだろうか。



「名前王女、ここです」
「はい、ありがとうございます」



扉の向こうから香ってくる食べ物の匂いに頬を緩めたわたしを見ていたジークベルト王子が扉を開ける。後について行こうと思ったわたしは王子の動きを目で追いつつも、香りを楽しんでいた。数秒経っても、さっきまで充分聞いていた鎧の音がしない。おかしいな。ジークベルト王子は開いた扉を支えたまま、わたしの方をじっと見つめていた。目が合ったわたしは咄嗟に手で先にどうぞという合図を送る。すると、王子は空いている方の手を軽く握って口元に持っていった。笑いを隠しているらしい。笑いを呼んだ原因が全く分からず、失礼なことをしてしまったのではないかと辺りを見渡すフリをして一人慌てた。



「女性が先だよ。名前王女、どうぞ」



王子の口元から離れた手はわたしを部屋の中へ招き入れるように動いた。ジークベルト王子が部屋に入ったあと、静かに扉を閉める動きを脳内で練習していたわたしは拍子抜け。部屋の中は物が整頓されて並べられており、壁には絵画が掛けられている。わたしの兄様の部屋なんて、物は散らかっているし、槍が無造作に壁に立てかけられているのに。芸術に疎いわたしに絵画の価値を語ることなんて出来ないし、嗜んでいるわけでも無いので、話題にされると少しまずい。何か変なことを突拍子もなく言ってしまいそうで怖かった。白夜に帰ったらシグレ王子に教えてもらおう。
テーブルの上に並べられた料理は暗夜の物で、馴染みは当然無かったものの、見た目や香りで食欲をそそられた。部屋の外に漏れていた香りが鼻を刺激した時から、お腹の虫が鳴きそうで我慢していたので、早く食べたい。



「名前王女はこちらへ」



ジークベルト王子が椅子を引いた。王子がそこに座るのならば、わたしは反対側に座ろう。そう思って、反対側に足を進めようとしたところだった。椅子を引いたのはもちろん座るためなのだけれど、王子が座るためではなく、どうやらわたしが座るために椅子を引いてくれたよう。暗夜王国ってどうなっているの。わたしの知らない世界が広がっているとしか思えない。
感謝の言葉をジークベルト王子に伝えると、当然だとも言いたげに微笑んだ。わたしは今日何回王子に笑われているのだろうか。面白くて笑われているのか、呆れて笑われているのか、分からない。でもね、わたし、王子の笑う顔を見る度に胸の辺りがきゅっと締めつけられたように痛いの。部屋が暑いわけでもないのに、どうして、こんなに熱くなっているの。



「名前王女、その手の痣はどうしたんだい?」
「あ、こ、これは…」



お淑やかなお姫様は寝起き直後に部屋から出て手を振り回すわけがない。口が裂けても言えなかった。シノノメ兄様を呼ぶ時は気持ちが高ぶって、ついついはしゃいでしまうわけだけれど、きっとジークベルト王子はこの痣の原因をそんな風に考えることはないだろう。だって、彼の目の前に居るわたしは白夜のお姫様なのだから。言い訳を探して日頃使わない頭を回転させると、慣れない手つきだったのもあったが、お皿とナイフをぶつけてしまった。カシャン、と大きな音が響く。



「そんなに動揺したのかい?ふふ、では、聞かないでおこう」
「えっ、あの、」
「でも名前王女、女性が傷なんて作ってはいけないよ。薬を用意しよう」



せっかくのご馳走だったのに、味なんて覚えていなかった。




ALICE+