昨夜、外向き用の服をメイドさんと選び、就寝したわたしは朝早くから目が冴えていて、ベッドから下りると少し皺になってしまっていた夜着を綺麗に正すと部屋のドアを開けた。廊下の明かりが眩しいけれど、いつものことなのですぐに慣れてしまう。部屋を出て、右と左どちらに行こうか悩みながらキョロキョロとしていると、鎧を身につけて剣を持って歩く少年の姿が目に入った。剣先は明かりに反射して煌びやかに光っている。早足で近づいて、そっとお辞儀をした。



「ジークベルトお兄様」



ドレスを着ているときのように夜着の裾を掴んだ手を離すと、フリルがふわりと揺れて元の位置に戻った。わたしの手の爪は綺麗に磨かれており、マニキュアまで付けられている。少し長めの爪だけれど、色を付けるにはこのくらいの方が映えるのだ。顔を上げると、優しい顔をしておはようとお辞儀を返すジークベルトお兄様と目が合う。その素振りはわたしのお父様にそっくりだった。お兄様もお父様も優雅で美しくて格好良い。



「名前、今日はいつもに増して早いのだな」
「ええ。今日は白夜王国にお呼ばれしたものですから」
「そうなのか」
「ジークベルトお兄様は白夜のシノノメ王子とお会いになったことはございますか?」
「ああ、もちろんだ。名前は小さい頃だったから、覚えていないかもしれないね」
「シノノメ王子はどんな方でいらっしゃるのですか?」
「それは自分の目で確かめてくるといいと思うよ」
「お兄様がそう言うのであれば。うーん、お兄様みたいな方でしょうか…」



フッと笑みを零したお兄様はわたしの前を通り過ぎて、廊下を颯爽と歩いて行った。気合いの入った強い瞳をしていたので、もしかしたら今日はお父様が稽古を付けてくださるのかもしれない。お父様は暗夜王国を統率する王で多忙な毎日を送っている。出来ることは手伝いたいのだけれど、兄様よりも未熟なわたしが出来ることは本当に限られたことしかなく、お父様はわたしに武器を持たせたがらない。お兄様は毎日剣で鍛錬を積んでいるのだから、隣でわたしが剣でも槍でも斧でも振り回したり、弓を引いたりしても良いはず。でもお父様がわたしに武器を持たせないのなら、それでも良い。お兄様がいずれ国を継いでいくのだから、わたしはその支えになれるように戦い以外のところでフォローすれば良いと思う。向き不向きというものをきっとお父様は見抜かれているに違いない。それに武器は持たせてくれないが、レオン叔父様に魔術を習うことは許可してくれていた。お兄様は剣で、妹であるわたしは魔法。なんだかお父様とレオン叔父様のようで、憧れの二人に近づけることが嬉しかった。それにレオン叔父様は優しい。わたしが分からないと言ったことを丁寧に教えてくれる。飲み込みがどんなに遅くても最初から何度も何度も説明したり、お手本を見せてくれた。おかげで魔法の扱いが段々と上手くなってきているのが実感出来ている。お父様はわたしの長けた能力を大切に伸ばそうとしてくれているのかな、そんな風に考えるともっと頑張ろうという気になれた。
自室に一回戻ったわたしは窓の外で剣を振るジークベルトお兄様の姿を覗き見した。的に向かって剣を振りかざすお兄様は格好良い、自慢のお兄様。自分の背負った使命をいつも真摯に考えて行動していて、民にまで目を配っているから尊敬することが出来る。わたしはまだ、そんなに立派な人ではない。お父様のように、お兄様のように、なろうとしても届かない。今は届かないけれど、いつの日かあの二人の隣に王家の一人として堂々と立てるようになりたい。



「今日も暗夜王国の王女として恥の無いようにしなくてはね」



暗夜王国で作った白夜風の着物を身に纏う。ドレスを普段身に付けているので、少しくすぐったい。なんだか白夜王国の王女になった気分で、すとんと手を自然に横に下ろすとそのまま会釈の練習をした。振る舞いから失礼のないように。と自分に言い聞かせるけれど、普段のクセが出てしまいそうで怖い。裾を持ち上げるなんて絶対にないのだから会釈のときは気が抜けない。わたしは今日、着物を身に付けているのよ、なんて何度も何度も心の中で唱える。シノノメ王子がお兄様のような方ならば、きっと優しく正して許してくれるのかもしれないけれど、お父様や白夜王国のリョウマ王のような方だったら、睨まれてしまうだろう。暗夜王国の王女はマナーもなっていないと。想像しただけで背筋の凍る思いがした。







小さい頃に訪問したといっても、雰囲気でしか覚えていない白夜王国は初めて来た感覚でいっぱいだった。地を鳴らし力強く駆けていた馬にゆっくりと歩くように手綱を引くと、鳴き声を上げて静かに歩き始めた。馬の乗り方だけは小さい頃から教えてもらっているので扱いは容易い。入り口までのんびりと歩く馬のたてがみを撫でながら、リズムの良い揺れに身を任せていると何やら人影が見えた。わたしが今日招待されていることは白夜王国の王族をはじめ、城の者たちには知れ渡っているはずだろうから、衛兵が迎えにでも来ているのだろう。さあ、ついさっき練習した挨拶を披露するときだ。



「お前が名前王女か」
「ええ。こんにちは」
「俺はシノノメだ」



腰をゆっくり折りはじめたところで思わず顔を上げてしまった。王子様が門まで出迎えてくれるなんて思っていなかったわたしは驚きのあまり、その場に固まってしまう。シノノメ王子はそんなわたしを見て、怪訝な顔をすると、そんなに畏まられるのは慣れていないから止めてくれと言った。そう言われても、わたしはこれ以外に人との接し方など知らない。普段からこんな感じなのだから、どうしようもない。それに雰囲気や仕草、言葉遣いからお兄様から全くかけ離れたタイプであることを一瞬で察してしまった。悪く言うと、お兄様のように王子様らしさがない。本当にこの人はシノノメ王子なのだろうかと疑ってしまったけれど、先程自分で名乗っていたし間違いはないのだと思う。ジークベルトお兄様、どうしてシノノメ王子のこと、もっと教えてくださらなかったの。



「俺たちはあまり年も変わらねえんだ。そんなに硬くなるなよ」
「…あっ、は、はい」
「飯にでもするか?」
「…」
「もしかしてもう食ったのか」
「ち、違いますけど…」
「俺に着いて来いよ」



わたしの手首を掴んだ手はお父様ともお兄様とも違う、知らない、男の人の手。掴まれた部分にゴツゴツしたものが当たっているのは、角ばった手の平に豆でも出来ているからだろうか。男と女の差を一瞬にして実感させられた。ぐいぐいと乱暴に引っ張られていく手に、わたしの身体は倒れそうになりながらも着いて行く。名前王女は箱入り娘なんだな、なんて笑い声が聞こえて、少し手を引く力が弱まった。お兄様に手を引かれるときは優しいのに、シノノメ王子は違う。わたしの進む道を拓いてくれる勇ましさに吸い込まれてしまうような感覚に陥ったけれど、やっぱり王子じゃない。女性の扱い方が雑だと思う。もっとお兄様を見習って丁寧に扱って欲しく思うのだけど、リョウマ王は自分の子どもの教育をどのように行っているのだろうかと心配になってきた。今、わたしは王子様に引きずられていく姫を演じているに違いない。こんなはずじゃなかったのに。



「名前王女、ここだ」
「へっ?」



扉の向こうから香ってくる食べ物の匂いに思わず頬を緩めてしまったものの、ここは城ではない。いわゆる城下町と呼ばれる所の一部だと思う。てっきり城の部屋にでも通されると思っていたわたしは拍子抜けだ。それにドアを開けてお店の中に入って行ったシノノメ王子はいつものよろしく、なんて言っている。彼の声が途切れたと同時にお店のドアの前で立って居たわたしの視界も遮られた。えっ、と声が思わず漏れてしまったわたしは急いで口元を押さえる。いつも男の人はわたしが通るときまでドアを開けて待っていてくれて、先にどうぞと言ってくれるのに。シノノメ王子は自分が入ったらドアをそのまま放置だ。少しすると、再度ドアが開き、彼がひょっこりと不思議な表情をして顔を覗かせる。もう、帰りたい。



「どうした?」
「な、なんでもありません」



自分で開けることなんて滅多にないドアをくぐったわたしは、シノノメ王子が指した椅子に座った。椅子に座るときもいつもお兄様が椅子を引いてくれるのに、なんて思いながら頬を膨らませていると彼がぷっと吹き出す。



「怒ってるのか?」
「ち、違います」
「ふーん。本当か?」
「…う、」
「なんでも言っていいんだぜ」
「ちょっと暗夜と風習が違うことに慣れなくて、もう帰りたくて…」
「そうなのか。まあ、帰りたきゃ帰ればいい」
「シノノメ王子は怒らないのですか」
「別に。ちょっと寂しいとは思うけどな」



この場を和ませようとして冗談でも零したのかと思ったわたしは彼の会話に何か返そうと口を開いたけれど、何も言わずに閉じた。シノノメ王子がすごく寂しそうな顔をしていたから。冗談でもなく、本心からそう思ってくれていたのかと思うとわたしの帰りたいという気持ちはあっという間に消えてしまった。彼はきっと思ったことをそのまま口に出す人だろう。
運ばれてきた料理は暗夜で見ることの出来ない食材を多く使用しているようで、初めて見るものばかりが並んでいた。目を凝らして一つひとつ見ていると、運んできた店員さんがわたしに名前王女様、白夜王国にようこそお越しくださいました、と言う。わたしが軽く会釈をすると、店員さんは王女様には白夜のことを少しだけお教えしますねと続けた。目の前のシノノメ王子はもう食事に手を付け始めていたけれど、店員さんの言葉に興味を惹かれたわたしは続きを待つ。目が合うと笑って、白夜では男性が女性を守ることが出来るように先を行くのですよ、と言う。その人が紡いだ言葉をゆっくり飲み込んだわたしは彼が美味しそうに食事を口にする姿をもう一度きちんと正面から見つめた。
なんだか、わたしおかしい。シノノメ王子がわたしの前を歩いていた姿を思い出す度に胸の辺りがきゅっと締めつけられたように痛いの。部屋が暑いわけでもないのに、どうして、こんなに熱くなっているの。



「どうした?そんなに顔を赤くして」
「お、お料理が熱くて」



咄嗟に吐いた嘘に何を思ったのか、シノノメ王子はわたしが食べようとしていた汁物のお椀を自分の前で持ってくると、お箸で一つ肉団子を摘んでは口の前へ。食べてしまうのかと思えば、息を吹きかけている。わたしが食べないと思って、残さないように彼が食べるつもりなのだろうかと見つめていると、何度か息を吹きかけた後にそれはわたしの口の前にやって来た。ん、と言ったシノノメ王子の顔は今日見た彼の表情の中で一番柔らかくて、パチリと一度瞬きをした瞳は優しくて。お料理のせいで熱くなったわけではないことは自分がよく知っていたのだけれど、彼のせいでもっともっと熱が上がってしまった。わたしが恐る恐る口を開くと、団子を運んで満足そうに笑っている。暗夜では絶対にこんなことをしないし、今までにしたこともないのに。美味いか、と聞かれて、何も言わずに頷くことしか出来なかったわたしは、両手で頬を押さえて下を向いた。もう、彼の顔なんて見られない。今日一日、シノノメ王子と目を合わせるなんて出来ない。



「別にお前を取って食うわけじゃないんだから、そんなに動揺するなよ」



せっかくのご馳走だったのに、味なんて覚えていなかった。




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