目を開けたときには自身の手で殺したいほど憎い相手がそこらじゅうに蹲る様に倒れていた。俺が下そうとした怒りの鉄槌は消える。もう、意味がないのだ。きっと、彼らは息をしていない。奴らは死に至ったというのに自分の心には喪失感しか残っていなかった。相手を消したからといって、終わる問題でないと分かっていたから。
中心にしなやかに降臨していた眩い光を放ったであろうネコがぱたり、と小さな音を立てて倒れる。とてもスローモーションのように見えた。



「エリ…!」



駆け寄った俺をちらりと見たようだったが、直ぐにその瞳は閉じられた。状況を上手く呑み込めないまま、エリを抱きかかえると屋敷に向かって全速力で駆ける。先程、蹴飛ばされた痛みなんて、どこかへ飛んで行っていた。彼女の痛みに比べたら、散々言うようではあるが本当にちっぽけなもの。







ぐったりとしたエリをソファに寝かせ、応急箱を取りにクローゼットを勢い良く開いた。屋敷の中でひとり取り乱したように叫ぶ姿はエリの瞳に映ることもない。



「エリ、エリっ、」



名前を呼ぶその声に反応は返ってこない。それが俺を余計に焦らせる。急いで応急箱を持ってソファに戻ると、エリの姿はない。動けない程の傷を負っていたのにも関わらず、まだ自分の傷を庇ってまで何かやり遂げようとしているのだろうか。いつかのように、俺に頼って、甘えてくれたのなら、もうそれだけでいいというのに。
そして、驚くべきことにエリとすり替わるようにして、あのレストランのウエイトレスが横たわっていたのだ。名前ちゃんがエリと同じように傷だらけ身体で、呼吸を乱している。今にも止まってしまいそうな呼吸は生きる時間が残り少ないことを示唆しているようだった。ジェイドが言っていた実験に巻き込まれたのはエリだが、内容を聞くと彼女は二つの姿を持つことが出来るようになったと聞く。だから、なかなか発見することが出来ないのではないか、彼はそう仮説を立てていた。魔物と人間の姿を両方操っているのだと。



「ガイ、さん、」
「な、なんでキミが…?」
「あの、ガイさん…騙すつもりはなかったんです。だけど、聞いてください」
「あ、ああ」
「エリの姿もわたしなんです。ガイさん、ありがとう…いつも、可愛がってくれて。人間ってとても怖いものだって思ってたけれど、それだけ、じゃ、なかった」
「つまり、キミは実験で、こんな風に」
「ええ、わたしは実験体。もう、先が、ない」



彼女の口から零れた、先が無いという言葉。つまり、意味するのは死ぬということ。
エリは俺にとって大切な家族で、名前ちゃんは俺にとって特別な何かに変わりつつあったのに、二つとも奪われていく。心をあたたかくしてくれた一匹と一人が離れていってしまうと思うと、取り乱していて忘れていた熱を持った雫が零れだす。そんな俺の顔を見て、名前ちゃんは自分のことを静かに語り出す。自分のことを一切語らずにいたのではなく、隠していたのだ。もっと早く気づいていたのなら、もしかしたら別の未来を掴むことだって出来たかもしれない。カーペットの上から床を勢いよく叩いた。



「…長くない、って分かったから、お世話になったガイさんを、守りたくて、」
「キミは女の子だろ!?男が守ってやらないと!」
「ううん。この先を生きるガイさんに捧げるの、今までの感謝の分を」
「生きてくれよ、生きて!」
「ねえガイさん、エリってね。ルークさんが付けてくれたんだけど、本当はエリカって名前。お花の名前。花言葉もあるの」
「…名前ちゃん、そんな悲しげに喋るなよ。生きるって言ってくれよ。先がない、なんて言わないでくれ」
「”孤独”って意味」



こんなに言葉を交わしているというのに、どうして死ぬなんて言うのか。彼女自身が生に欲を持っていないだけではないのか。もっと生きることに強欲になって、生きることに縋れば良い。話をしているというのに、俺と彼女の間の会話は成り立っていないように思えた。名前ちゃんが一方的に話を進めているのである。俺の叫びに耳を貸してはくれない。今までそんなこと、ひとつもなかったのに。
有耶無耶にしたままにするつもりであろう彼女に向かって俺は大きな声で言葉を発する。



「死にたくないだろ!?死ぬのは怖いだろ!?どうして」
「…っ」
「どうして…そんな、簡単に、死ぬって言えるんだ…」
「…わたし、幸せになれるわけないってずっと思っていました。でも、ガイさんたちに会って幸せを知ったんです。もう、それだけで、十分です」
「どうしてそんな暗い未来しか見ないんだ…?」
「ガイさんは、やっぱり、いつも、優しいんですね」



咄嗟に握った彼女の手は冷たかった。生きている心地がしないくらいに。彼女をこんな目に遭わせた奴らが冷たくなっていく想像と重なる。エリ、名前ちゃんにはそんな末路を歩んでほしくなどないのに。今、言葉を交わしていても、魂は此処に在らずという感じだった。それだけ、彼女には時間がない。加えて、彼女自身が死を受け入れてしまっているのだ。



「あ、のっ、ガイさん」
「…今だけは」
「震えて、」
「…いいんだ。これはキミを失う、恐怖だから」



エリと名前ちゃんが同一の命であるならば、彼女は俺の女性恐怖症を知っているだろう。だから、心配してくれているのだ。しかし、もう生きるという道を諦めた彼女に何を言っても更生させることは不可能であったし、何よりも昼間アニスが言っていたことがある。もう彼女は助けられない、ということだった。
瞳の色が消失しかかっているのが分かった。今にも閉じられそうな瞼で、そんな彼女の手を握った俺の手にはいっそう力が入る。本当は生きて欲しくてたまらない。



「…あ」
「名前ちゃん?」
「なんだか、眠く、て」
「…くっ」
「あの、ガイさん、最期にお願い、聞いてくださいますか?」
「…なんだい?」
「あなたの腕の中で、眠らせて…無理強いはしません、けど」



最期のお願いという言葉の響きは酷く冷たく、生を手放そうとしている彼女のくちびるから震えるように紡がれた。震えが止まらないのは死に対して怖いと思っているからだろう。言葉には出さないけれど、心底怯えているのだ。本当は叫びたいのではないだろうか。
彼女の言葉を聞いた瞬間にソファに横たわった彼女の上に覆い被さるような体勢を取り、そのままゆっくりと反転させる。ぎゅっと抱いて。



「名前ちゃん、実は…」
「その、先は、言わないでくださ、い」



くちびるは震えたまま、それでも懸命に形を変える。もう、血の通っていないような色をしたそれを見ることが辛かった。彼女の言葉ひとつひとつが最期の物だと思えて仕方ない。もうじきこの笑顔を見られない、言葉さえ聞けないなんて。
だからこそ、自分の想いを伝えたかったけれど、それは阻止されてしまった。


「…ガイ、さ、ん、すき」
「…っ!」
「ほんとは、まだ、いきたか、ったな…さ、よなら、ありが、と、う」



最期に本音を零した彼女はエリの姿に戻り、もう二度と動くことはなかった。







絶対に忘れない。だから、見守っていてくれ、そう小さく呟いた。瞳から生温かい雫が流れていくのが分かって、胸が絞めつけられたように痛くて。それでも前に歩いて行かなければならないと頭では理解していて。この空虚感は何時までも有り続けるだろう。
エリと過ごしたこの屋敷、名前ちゃんと時間を共有する空間であったレストラン。失くしたものばかりじゃない、想い出だって心の中に確かに存在している。それだけが軋んで悲鳴を上げる心を唯一癒してくれるものなのかもしれない。



「…これは」



エリの定位置に置かれた小さな箱を見つけた俺は、エリを腕の中に抱いたまま、それに近づいていった。冷たくなったネコの身体は小さな命がふたつ失われた重さを俺に直接的に伝えてくるようで。腰を下ろして、綺麗に結ばれたリボンをそっと解く。涙はいっこうに止まらない。
リボンを解き終わって、箱をゆっくりと開くと出てきたのはチョーカー。添えられたメッセージカードには、いつもありがとうと綴られていた。ありがとう、と言いたいのは俺の方であるというのに。エリも名前ちゃんも俺にたくさんの物をくれたのだ。形のない、あたたかさを。
憎らしい程に綺麗な月の晩に吹いていた風が窓から入り込み、その風にメッセージカードが飛ばされ、裏面が表になって手から落ちる。

ああ、彼女は最初からこうなることがやはり分かっていたのだ。



“しあわせでした。あなたがすきでした。ガイ、あいしてくれてありがとう。エリと名前より”


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