いつも通りのことをしただけであるのに朝から驚愕、感動した。 あのエリが俺の手から餌を食べたのである。ここ最近引っ掻かれる回数も減ってきたなと思っていたら、なんと餌を食べるところまで成長したのだ。今までは餌を置いて、俺がかなりの距離を置かないと食べ始めなかったというのに。 「エリ、俺のことをやっと認めてくれたのか…?」 自分の存在が認められ、少しでも距離が近づいたように感じたが、撫でようとした手は尻尾で叩き落とされた。手厳しいものである。あなたには興味など最初から持ち合わせてはいないのよ、と貴族のお嬢様のような姿を見せつけたエリは俺の方にお尻を向けた。とはいえ、今までよりは仲を深めることが出来たようなので、あまり先程のことは気にしていないが。 「きゅ、」 「…ん?」 小さな声で鳴いてゆっくりと振り返り、俺を見た瞳。 既視感。エリがこんな風に俺を見てくれたことは無いはずなのに、こんな経験をしたような気がしてならない。抜け落ちている記憶は女性恐怖症に関することだけと思っていたが、まだ心の底に眠っているものがあるのだろうか。ホドに居た際に似たような動物にでも会っていたのかもしれない。島が消滅した際に消えたのは人間だけではなく、植物も動物も、命のある全ての生き物が一瞬の内に消えていったのだから。 首を傾げると、エリは彼女専用の出口から飛び出していった。 「散歩の時間か」 広い屋敷にひとり取り残されたような気持ちになる。ずっと屋敷にひとりでいるのが普通のことだったからこそ、エリがやって来て寂しさを大きく感じるようになっていた。レストランと違って、周りには誰もいない。わいわいとした雰囲気の欠片さえない。当たり前だ、ひとりしかいないのだから。頭の中でぐるぐると渦巻くひとりという言葉で、先日会った女性がその言葉を口にしていたことを思い出す。彼女は今頃どうしているのだろうか。テーブルの上に置いてある花瓶の水を入れ替えるために、水道の蛇口を捻った。溢れ出す水は透き通っていて、小さな粒に自分の顔が映る。 「そういえば、名前ちゃん遊びにおいでって誘ったな」 女性恐怖症のクセして、なぜ自分から女性と二人きりという状況を作りだそうとしているのか。自分が恐ろしくて、頭を思いっきり振り、蛇口を慌てて先程とは反対方向に捻る。急に止まった蛇口の水は残っていた雫がぽたりと音を立てて落ちた。エリもいつ帰って来るか分からないのだから、今は止めておくべきだろう。彼女に満足してもらえるような、もてなしもまだ充分には出来ないはずだ。けれども、いつかこの屋敷に招いてやりたい。エリも女の人の方がきっと安心出来るに違いない。そう勝手に思い込んで。 「まずは休みの日を教えてもらわないとな」 「え?名前かい?」 「はい。こちらでウエイトレスをされている女性です」 「シフトが入っている時間以外のことはさすがに把握していないからねえ。あの子、あまり自分のことを話すような感じでもないよ」 「…そうなんですか、ありがとうございます」 バイト先に行けば分かるだろうと思った俺の考えは甘かった。レストランのチーフに怪訝な顔をされて追い払われるようにしてそこを出る。店としても指定時間内だけ拘束するわけだから、冷静になって考えてみれば今のような行動を起こすことが無駄だと判断出来るだろう。何を焦っているんだ、とばかりに自分の両手で頬を軽く叩いた。 地道に情報を探すしか道はなさそうである。この前、話をしたときに彼女のことを少しでも聞けば良かったと後悔したが、チーフにさえ自分のことを話していないとなると、知り合ったばかりの俺に話そうなんて思わないだろう。 「おーい、ガイ!」 遠くの方から聞こえる名前に反応して振り向くと、赤髪の男と小さな水色の体をした生き物がこちらに向かって来るのが見えた。俺の屋敷に家族を増やしてくれた張本人である。最初は面倒を持ち込まれたな、と正直思っていたが、今では感謝しているのだ。エリが居ることで俺はひとりではなくなっているのだから。 「俺のせいでジェイドに怒られたんだろ…ごめんな」 「いいや、ルークだけが悪いわけじゃないんだ」 「ご主人様とっても反省しているのですの〜」 頭を下げるルークにおいおい勘弁してくれよ、と言うとルークは笑った。すると、彼はミュウを腕に抱きながら柔らかい口調で、ガイはいつも優しいな、そう言う。優しいという言葉が果たして今の俺にしっくり合うものかどうかは分からないが、彼がそう思ってくれていること自体が嬉しくてたまらなかった。何があったって、親友だと言わんばかりの瞳が俺を見ている。 「エリはどうしてるんだ?」 「元気さ。俺もちょっとだけ仲良くなったよ」 「本当か!それは良かった。ところで、ティア見なかったか?今日グランコクマに来るって言っていたんだ」 グランコクマの中を端から端まで探すのは骨の折れることだ。ただ、ティアが広い国内のどこかにいるのは間違いないというので、俺とルークとミュウで手分けして捜索に当たった。彼女は探さなくても、自分で判断して動けると思うのだが、ルークがどうしても心配だと言い張る。思わず吹き出してしまって、ルークに怒られてしまったけれど、なんと微笑ましいことだろう。昔からの彼を知っている俺としては、成長っぷりが小さなことでも嬉しいものだ。 店が立ち並ぶ道を歩く俺はルークのようにどんどん前に進めてはいない。必ず自分の後ろに影が潜んでいて、前に進もうとする俺の身体を触手で拘束するように縛り付けているのだ。もう、自分がその絡みついている物を断ち切る剣を持っていると分かっているのに。 「可愛い…」 ぽつり、零れた言葉が俺の耳に届いた。声のする方角には大きな木が聳えており、その根元に栗色の髪の毛をした女の人が座り込んで、何やら手を伸ばしているようである。旅の途中でも仲間から隠れるようにして、こんな風に何かに集中している彼女の姿を思い出した。 「きゅる?きゅるきゅる」 「可愛い…さ、触ってもいいかしら?」 水の都と呼ばれるグランコクマは本当に国中どこへ行ったって、濁った水は見られない。水を通して別の景色が見えてしまうくらいに美しい水が流れているのだ。根元に座り込む彼女の隣には、木の枝を辿って落ちてきた雫が水溜まりを作っている。植物に与える水もこのグランコクマの自慢の水に間違いない。そんな水溜まりをちらりと見ると、聞き覚えのある声の持ち主である彼女の元へ確信を持って近づいて行った。 「ティア」 「きゃ!?あ、が、ガイ?なにかしら」 「キミは何をしているんだい?」 「あ、あの、ネコがいたから」 「ティア、このネコ、うちのネコなんだ」 「ガイ、の?」 「ああ。だから、屋敷で存分に遊んでやってくれ」 子どものように輝く瞳の中には心を奪われたと主張するような赤いハートが詰まっているように見えた。これでは口で誤魔化そうとしても、彼女が可愛いものが大好きだと語っていると言える。隠しているつもりかもしれないが、もう俺たちにはバレている。素直に可愛い物を可愛いと愛でることは悪いことだとは思わないのだが、きっと彼女は自分なりにいつもの自分と合わないと思って隠そうとしているのではないだろうか。 「エリっていうんだ」 「そうなの、エリ、よろしくね…?」 「きゅ!」 我慢出来なくなったのか、制御しきれなくなったのか、ティアはエリを抱きかかえて大変満足そうである。いつも厳しいようであるが、やはり女の人なのだとしみじみ感じた。エリも嬉しそうで良かった。俺のときとは全然違う態度で悔しさもあったが、エリが嬉しいならもうそれもいいかとくちびるをそっと噛む。 「ティア!」 「ルーク!」 ちょうど良いところで全員集合したようだ。ティアもルークも顔を合わせると、ほっとした表情を浮かべている。それを見ながら微笑ましいと思ったのは俺の心に秘めておこう。 今日は騒がしい夜になりそうである。屋敷の中を荒らされてしまうので迷惑だなんて、とある貴族は思ってしまうかもしれないが、俺は違う。ひとりがふたりに、そして今宵はそこに加わる人がいる。喜ぶ以外に感情なんてない。なんていったって、皆、絆で結ばれた仲間なのだから。 |