送っていくよ、と言うのに名前ちゃんは承諾してくれなかった。家は近いし、すぐに着くからひとりで大丈夫ですと頑固に言い張るのだった。無理強いは出来ないので、少し残念に思いながら、帰路につく。ひとりは寂しいってキミが言ってたじゃないか、道端に転がっていた石ころを無造作に蹴り飛ばした。 エリはもう、帰ってきただろうか。 「ちょっと遅くなったな…」 玄関の扉を開け、照明を点けた。時計をちらりと見ると、まだ日付は変わっていないものの、出歩くのは避けるべき時間帯であった。エリの定位置は空いたまま。普通に考えても不可解なのは間違いなかった。飼いネコが夜中に出歩くというのはどうなのだろうか。 けれど、俺はエリを信じる。疑うなんて、家族を悪く見るなんて出来ない。エリのお気に入りのクッションに手を伸ばして触れてみると、酷く冷たかった。長い時間、温もりを持ったものが触れていない証拠である。しかし、エリの匂いは微かに残っていた。 この匂いに似た香りを最近どこかで匂ったことがある気がする。経験をしたはずなのに思い出せないことが多すぎて、本当に自分の記憶をどこまで思い出していて、忘れ去っているものが幾らでもあることを痛感するばかりだ。 とんとん、と足元にノック。匂いに気を取られていたせいか、エリが帰ってきたことに全く気付かなかった。ソファに腰を下ろし、俺は持っていたクッションにエリが飛び込んでくると予想して、クッションを座った隣にそっと置いた。 思惑通り、エリはソファへひょいっと登ってきた。 「きゅ」 どきりとした。 今まで体験したことが無いことが起こったのだから。エリが俺の膝の上に乗って、顔を胸あたりに押し付けてきたのである。隣に置いた定位置にしているクッションには目もくれずに、膝の上だ。 「はは、甘えたさん、かい?」 動物であってもエリは女の子。男に甘える術を心得ているようで、俺は苦笑した。 「キミはいけない女性だ。男を誑かすんだからね」 「きゅう?」 「人間の女性にこんなことされたら、俺は震えあがるだけ。エリは動物だから、か」 抱き上げると、顔をそっと近づける。人間の女性だったのなら、絶対に出来ない。 大きな瞳と俺の目がばちりと合う。あと少しの距離で触れ合うところくらいまで近くにいるエリは、やっぱり俺の可愛らしいネコだった。 「エリ、俺はキミと出会えて本当に良かったよ。さあ、今日はこのまま眠ろう」 次の日、朝目覚めた俺は風呂に一直線し、さっぱりとしてから屋敷の外へ出た。今日は先日の事件に関して、ジェイド、アニス、ピオニー陛下と会議を開くことになっていたのである。残りの魔物が捕獲されないままで、事件は行き詰っているらしい。俺とルークとティアで捜索に当たっても、発見されなかった。しかし、あの広い範囲をたった三人で調査するだなんて無理な面もあるだろうから、しょうがないと言えばそうなのかもしれない。ピオニー陛下は早く事を解決させて国の皆を安心させてやりたいだろうから、俺は尽力するだけだ。 「ガイ〜、こっちこっち!」 「おはよう、アニス」 「おはよ…あのね、ガイ」 「どうした?」 「ううん、なんでもない。あとで言うね、まずはこっちに来て」 アニスが一瞬バツの悪そうな顔をしたのが非常に気になったが、会議まであまり時間がなかったので、深く追求するのは後回しにしよう。彼女の後を小走りでついて行くと、既に会議室の椅子に陛下とジェイドが座っているのが見えた。ようやく来ましたか、とばかりにジェイドが眼鏡を持ち上げては下ろす。そんな様子を見て、俺はそそくさと用意された椅子に腰掛けようと陛下が指差した場所へと移動した。 「おはようございます、陛下、ジェイド」 「全く、陛下の身の回りの世話をしなくてはならない私の身にもなって欲しいものですよ。早めに来て、陛下の相手をするという考えを持ってくださいね」 「いや、それはジェイドが」 「大佐〜、ガイも来たんですし、早く終わらせましょうよー」 「そうですね」 「俺については無視か」 陛下が口を閉じた瞬間にガタンと音を立てて、ジェイドが険しい顔で立ち上がった。彼も陛下と同じで厄介事は早急に片付けてしまいたいはずである。どうせ、また俺に頼み事でもあるのだろう。それにしても、前回のようにジェイドひとりが俺と話をすれば終わることだというのに、今回は陛下も同席しているのだ。そこが気にかかるところではある。 立ち上がったジェイドがさっきのアニスのように何か言いにくい様子だったため、珍しいこともあるもんだなと軽い気持ちで見ていたが、その後に告げられた言葉に口を閉ざすしかなかった。 会議を終えて、城をフラフラしているといつの間にか夕方になっていた。ジェイドとアニスがあんな表情をした意味は分かったけれど、その事実は受け入れ難いもので。 心の中の整理なんて当然つかない。考えることも面倒で億劫になった俺は気晴らしに歩き回っていたのだった。歩いて歩いて、あの言葉を忘れて、なかったことに、聞かなかったことに、知らなかったことにしてしまいたい。手袋をそっと外して、自分の手を見つめた。この手で、どうにか出来ないのかと。 運命を呪うというのはまさにこのことか、くちびるを思いっきり噛むと血の味が滲んだ。 「くそ…っ」 何も出来ない自分が悔しくて、憎らしくて、もう一度くちびるを噛んだ。先程出血した部分を再度思いっきり唇を噛んでいたようで、口の端から血が一滴溢れては、白いシャツを赤く染め上げる。広がる赤は黒い感情の渦巻きが加速していくようだった。痛みを感じるが、あの子に比べるとちっぽけな痛みである。 あの子に何の罪があるのか。彼女は被害者なのだ。どうして、罰を受けなければならない。 気がつくと、周りを囲まれていた。見知らぬ顔のガラの悪い奴たちである。 いつもであれば、剣で応戦して簡単に片づけることが出来るのだがこんな時に限って剣を持っていなかった。更に分が悪い。数が多すぎたのだった。今朝、屋敷を出たときはジェイドたちにこんな重たい事実を突き付けられるとは思っていない上に、笑い話を交えての会議だと考えていたのである。わざわざ剣を身につける程でもないと。 「…っ!」 「おっと、さすがのガイラルディア伯爵もこの人数なら抵抗出来ねえな。それに剣も持ってないしな」 「ははは、俺たちの実験の邪魔をよくもしてくれたな…もう少しだったのに」 下衆集団の言うことなんて耳に入らない。今、剣を持っていたのなら、心臓目掛けて貫いていただろう。月の下で返り血を浴びて、冷徹な目で動かなくなった彼らの身体を見つめるのだ。血液の循環しなくなった冷たい身体を見て、笑ってやるのだ。お前たちが犯した禁忌の償いだと。そんな黒い感情が龍のように空へ上っていく感覚がした。でも、ただそれだけで罪を償えるとしたのなら、どんなに良かったことだろう。それでもはらわたが煮えくり返るようで、俺は何をするか分からない。命を粗末に扱う人間など、この世の中にはいらない存在なのだ。こんな奴が世界に居るから、不幸になる子がいるのだ。 「お前らのせいでな!」 「はっ、お前の言うことなんざ聞きたかねえよ」 「…くっ、」 「伯爵をどうしてやろうか…そうだ、お前も実験体になってもらおうじゃないか」 「強靭なサンプルだ。良い結果になるかもな」 「ふざけるな!俺はお前らを絶対に許さない」 「何を言っても無駄だ」 野郎の一人が俺の腹に向かって一発蹴りを入れた。体は押さえられているため、反撃も防御も不可能。ストレートに喰らった俺は顔を歪ませた。だが、あの子に比べたら、こんな痛みは比べ物にならないはず。どんなに傷ついたか、心を痛めたか、それは本人にしか分からないけれど、少なくとも家族を失った経験を過去に持つ俺がこいつらに屈することは決してない。家族を傷つけたこの罪人どもを俺は許さないのだ。彼女のためにも。 その時だった。 何かが飛び込んできたかと思えば、眩い光を放ったのである。当然、普通の人間であれば目を眩ませて一時的に行動が取れなくなるだろう。そう考えたが、彼らに押さえつけられていたはずの身体がふっと軽くなったのだ。倒れ込んだような音に続けてジタバタする音が聞こえる。俺の眩しい光のせいで目は開けられなかったものの、倒れることはない。しばらくして、微かに目を開くと、視界の中で月を見上げて立っていたのは。 ジェイドの言葉が脳裏に甦り、現実は俺に突きつけられた。 「ガイ、あなたが可愛がっているエリは」 今でもいいから嘘だと言って欲しかった。 「残酷なことを言うのは承知の上ですが…実験の魔物です」 |