好きな人に振られるのは別に初めてではなかっただけれど、結婚するかもって思っていた人に浮気された挙句こっ酷くフラれるのは初めてだった。雨で頭も痛いし最悪、カツンカツンと少し踵の高い革靴を鳴らして角を曲がったら嫌味なほどに”イイオトコ”の香りを纏わせた入間巡査部長とぶつかった。
ドンっと軽く身体がぶつかり一歩後ずされば綺麗な指を包み込んでいる真っ赤なグローブが私を掴む、そして気がつけば彼の腕の中にいた。
「〇さん大丈夫ですか?」
「入間さん・・・」
ゆっくりと私の身体を離して入間さんは眼鏡の奥にある目を細めて申し訳なさそうに笑った。
「すみません咄嗟に抱き締めてしまいました、セクハラだと訴えないで下さいね」
「いえそんな 私の方こそすみません」
流石ヘビースモーカー、一気に私のスーツに煙草の香りと香水の匂いが移る。
「貴女 顔色悪いですね、何徹目ですか?」
「・・・いえ恋人にフラれて寝れなくて」
「・・・・・・へぇ」
へぇって・・・気まずい、そもそも私とした事が”フラれて落ち込んでるんです”なんて如何にも女な理由で恥ずかしくなった入間さんの顔を見れずに呆然と立ち尽くす。
「あの、すみません入間さん・・・変なこと言ってしまって、何も考えてなかったもので」
「いえ気になさらないで下さい」
「ありがとうございます、あのそれでは お疲れ様でした」
「〇さん待って」
真っ赤なグローブに二度も掴まれるとは思っていなかった、驚いて目を見開けば楽しそうに笑った入間さんと目が合う。
「私も今さっき仕事終わりましたので、これから食事に行きませんか?」
「・・・え?」
「まぁ、予定があるなら別ですけど」
口角を少し上げて意地の悪そうな顔を見せる、なんて嫌な男でなんて優しい人なんだろう。
「入間さんの奢りですか?」
「当たり前です」
「じゃあ 行きます」
「決まりですね コートを取って来て下さい」
「はい」
「私の車まで来て下さい、待ってますよ〇さん」
そう言って彼はコートの隙間から見えるネクタイを少しだけ緩めて駐車場の方に向かった。
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車の中で他愛のない話をして連れて来られた小綺麗なイタリアン、少し狭い店内の一番奥にある半個室の部屋に案内された私達は店員さんにコートを渡して薄い椅子に腰掛ける。店員さんが出て行くとじゃらじゃらと煌めくビーズ達が揺れた。
「何飲みますか?」
「あ、今更ですけど 入間さん飲めないじゃないですか・・・」
「かまいません 後で家で飲みます」
「そんな それなら私もノンアルコールで」
「駄目ですよ 〇さんの為に来たんですから」
「申し訳ないです、そんなの」
「ではこうしましょう、上司の命令です」
「・・・ふふ、っふ 入間さん強引すぎです、それじゃ・・・ハイボールで」
「最初から甘えておけばいいものを、では注文しましょうか苦手な食べ物とかあります?」
「特にはないです」
「分かりました」
そう言って彼は卓上に置かれたボタンを押して店員さんを呼ぶ、その仕草はとても手馴れていて常連さんなんだなぁってぼんやり考えていたら藤棚のようなビーズを少し気怠そうに避けて疲れた顔の店員がペンと紙を片手に入って来た。
「ご注文は」
「ハイボールとウーロン茶、前菜の盛り合わせ2人前と後はそうですねぇ・・・」
「今日のオススメ持って来ましょうか」
「そうして下さい」
「ありがとうございます」
そう言って店員さんはうざったそうな襟足をビーズに絡めてホールの方へと戻っていった、賑やかな声は聞こえるけど他のお客さんの姿は見えないからかドッと入間さんの事を意識してしまう。
「〇さん、タバコを吸っても?」
「あ、はい どうぞ」
「ありがとうございます」
「あれ、入間さん電子タバコでしたっけ」
「女性と食事ですから」
スイッチを入れて吸い始めると何かを燻したみたいな香りが鼻を掠める、入間さんとはそこそこ長い付き合いだが彼が電子タバコを持っている所は初めて見た。運ばれて来たハイボールとウーロン茶の氷がカランと踊る、そして前菜の盛り合わせがキラキラ光ってあまり空いてなかったのにお腹が小さく鳴った。
「では、乾杯」
「乾杯・・・です」
「ん?緊張してます?」
「入間さんと2人きりで食事なんて考えてもみなかったので、少し緊張してます」
「まぁ確かにそうですねぇ でもまぁ、新鮮で楽しいですね」
「楽しいですか」
「えぇ」
入間さんは真っ赤なグローブを外さないで箸に手を伸ばし器用に前菜を取り皿に乗っける、冷えていて美味しそうなカルパッチョのタレがぽとりと取り皿の淵に落ちた。
食事を始めて1時間も経てばすっかり酔っ払いに、ベラベラと情けない私の愚痴を時折笑いながら聞いてくれる入間さんに甘えきってついつい5杯も飲むという失態をカマした。
「貴女もしっかり女の子だったんですねぇ」
「おんなのこ」
「悪い意味じゃないですよ、それにしても羨ましいです貴女の元カレ」
「羨ましい、ですか?」
「〇さんにこんなにも深く愛してもらって」
伏し目がちだからどういう感情なのか分からないけれど、そう言った入間さんの声は今まで聞いた事ないくらい優しくて涙がボロボロと溢れる。ギョッとした顔の入間さんに「なんで泣いてるんですか」と聞かれたが答えられない私は、どうする事も出来ずに一口分しか残っていないワインに口をつけた。
「すみません」
「いいんですよ、飲ませ過ぎました」
「入間さんのおかげで少し楽になったんで、気にしないで下さい」
「・・・部下のケアも上司の役目ですしね」
そう言って少し垂れている眉をもっと垂らして入間さんは笑って私の手の甲にそっと触れる、急にこんな事をされたら普通は嫌だけれどあの入間さんだ 手を振りほどくなんて事出来ずに彼のエメラルドのような瞳を見つめた。
「大丈夫ですか?」
「はい あの、すみません」
「はは 謝ってばかりですね」
「入間さんシラフだから余計に恥ずかしくて、嫌ですねこんな女 面倒くさいし」
「そうですか?女性はそれくらいが一番可愛らしいですよ」
「優しいですね」
ゆっくり手を離して入間さんは卓上のボタンを押した、あぁもうこの楽しい時間は終わりなのか。少し残念な気持ちになってる私に気が付いたのか入間さんはやんわりと笑って薄い唇を開いた。
「飲み直します?」
「いいんですか・・・?」
「まぁ、私の部屋になってしまいますが・・・いや、女性をこんな遅くに家に連れ込むのは良くありませんね また別日に」
「行きたいです、あの 行ってもいいならですけど・・・」
何必死に食いついてるんだろう私、貞操観念の低い女だと思われるかも、でも先に誘ってくれたのは入間さんだし、まず私みたいな女に手を出すわけないのに何言ってるんだろう・・・入間さんのだんまりが怖くてぐるぐると考えてしまう。そんな時、救いの手が。
「お呼びでしょうか?」
さっきとは違う若くて可愛らしい女の子がひょこっとビーズを掻き分けて顔を見せる。
「会計をお願いします、これで」
「かしこまりましたぁ〜ちょっと待ってて下さいね」
「・・・入間さんご馳走様でした 私ばっかり飲んじゃってすみません」
「いいんですよ 〇さんの知らない一面を知れましたし」
「なんか、弱み握ったみたいな言い方で怖いです」
「あはは すみません」
入間さんの家で飲み直したいって話は綺麗に流されてしまったようだ。
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少し膨れたお腹と和らぐ心臓の痛みに冬の夜風を染み込ませて入間さんと隣同士駐車場に向かう、電子ロックを解除した音が駐車場に響く。
「では、行きましょうか」
「えっと 私の家の方向知ってましたっけ・・・」
「知ってたら怖いでしょう」
「そうですよね、すみません 地図出します」
「おや、飲み直すんじゃなかったんですか?」
「え」
「気が変わりましたか?」
「いえ、飲み直し・・・ましょう 私でよければ付き合います」
間の抜けた声を漏らしてしまった、私の返答にクスクス笑った後入間さんは車を出した。小雨だったのに本格的に降り出した雨が窓ガラスを濡らしていく様子をぼーっと見つめる。
そういえば、こうやって雨が降る日にドライブとかしたなぁなんてあんな最低男の事思い出してまたじんわり涙が滲む。
「・・・泣いてるんですか?」
「さっき泣いちゃった分がまだ滲んできたみたいで」
「貴女はとても愛情深いんですね」
「未練がましいという方が正解かもしれません」
「そうでしょうか?・・・もう到着しますけど、コンビニ寄りますか?女性ですし必要なものあるでしょう」
「えっ」
「もう遅いですし、私も飲んでしまっては送れないので泊まっていって下さい 歯ブラシはまぁストックがありますし大丈夫ですが、化粧落としなどそういった女性が使うものは家にないので・・・買いに行きましょうか?」
「あ、えっ は・・・はい」
入間さんをちらりと横目で彼を見れば楽しそうに笑っていた。
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コンビニで買い揃えたお泊まりグッズ、おつまみと缶チューハイやワインのボトルが入っている大きく膨れた袋を片手に入間さんは器用に家の扉を開ける。なんだか、こういうの久しぶりだ。
「お邪魔します」
「どうぞ」
「あの、荷物ここに置かせてもらっていいですか?」
「えぇ、好きな所に置いてください グラスを用意しますからソファーで寛いでいていいですよ」
「お言葉に甘えて、失礼します」
ぎゅっと革製品特有の冷たさと音を感じながら腰かければキッチンからグラスがカチャリと擦れる音が聞こえてきた、甘く響くその音にもう別れてるのに彼氏でもない男の家の人にあがってしまった事への罪悪感が脳を焦がす。
「チューハイから飲みますか?」
「はい」
「では、私も久しぶりにコレ飲んでみます」
「・・・缶チューハイ死ぬほど似合わないですね」
「死ぬほど似合わないですか?」
「はい」
クスクス笑えば私の横に腰掛けて笑いすぎですよと眉を落とす入間さん、落ち込んだり楽しくなったり忙しい自分の感情を蹴飛ばして私は入間さんのグラスにチューハイを注ぐ。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
「では、もう一度乾杯しましょうか」
「はい ありがとうございます、・・・入間さん眠くないですか?」
「急ですね 大丈夫ですよ、〇さんは眠くないですか?」
「まだ平気です」
ゴクリとチューハイに口を付けた入間さんの喉仏が上下する、緩められたネクタイのせいか初めて見る彼の首元をジッと見つめてしまった。
「見過ぎですよ」
「あっ ごめんなさい」
「ごめんなさいって、ふふっ 可愛いですね」
「すみません・・・」
「ごめんなさいの方が貴女っぽくていいですよ」
「上司に向かってそれは」
「まぁまぁ、今くらいイイじゃないですか 飲み友達くらいの気持ちで」
少しだけ、距離が近付く。入間さんの匂いとお酒の匂いが鼻を擽って脳を溶かして嫌になる程の安心感にまた目頭が熱くなる。涙を流したくなくて一気にチューハイを半分胃に流し込めばぐらりと頭が重くなった。
「いい飲みっぷりですね・・・って、また泣いてますよ」
「私 どうしちゃったんだろう すみませ」
「いいんですよ」
「変なこと言っていいですか」
「なんですか?」
「少しだけ 抱き締めてくれますか」
とんでもない事を言ってしまった、ハッと顔を上げれば初めて見る顔で固まっていた入間さん。
「冗談です から お酒のせい、いや自分のせいですけど」
「こっち向いて下さい」
「あの入間さん」
「結構重症なんですね、〇さん」
グイッと引っ張られて私はあっと言う間に入間さんの細いながらも筋肉質な腕の中に閉じ込められた、薄いシャツ越しにあたたかい熱を頬に感じる。ドッと汗をかいて、ドキドキと死んでしまうんじゃないだろうかと心配になる程の動悸。
「いるまさん」
「すごい汗ですね」
「汚いから、触らないで下さい」
「汚くないですよ」
「恥ずかしいから」
「抱き締めてって言うよりも恥ずかしい事なんてないでしょう」
ゆっくりと髪を撫でて入間さんは私のおでこにキスを落とした。
「入間さん、汚いってば・・・」
「すみません可愛らしくて ついキスしてしまいました」
「汗かいてる方が気になります・・・!」
「・・・それは汗かいてなかったら良いって事ですか?」
「それは」
入間さんはおでこに張り付いてしまった髪を優しく離してもう一度髪を撫でる、浮気をしてる気分になるのはなんでだろう。まだ好きだからかな、なんて考えていたら入間さんは人差し指で私の頬を撫でた。
「〇さん、忘れさせてあげましょうか」
静かにそう言って私を見つめる入間さん、そんなのダメだって分かっているのにコクリと頷いてしまった。
少し暗めに設定された間接照明に揺れた獣のような入間さんの瞳がギラつく、全身の毛が逆立つようなそんな感覚に胸を跳ねさせた。