椎名ニキ

扉を開けると、コーヒーの香りに混ざって金木犀の香りがした。入り口にあった橙の花を思い出して深呼吸をすると、カウンターに立つ彼と目が合ってぱちり、それからすぐにふわりと笑われた。

「なまえちゃん、分かりやすいっすよね〜」
「え、なにが」
「僕の料理食べる前にも、今のやるでしょ。深呼吸」

癖みたいなもの?そう首を傾げるニキにつられて私も首を傾げた。知らず知らずのうちにそんなことをしていただろうか。良い香りにつられて深呼吸だなんて食いしん坊みたいでなんだか恥ずかしい。俯くとつやつやと磨かれたテーブルに反射して、形容しがたい表情の自分が映る。

「そういえば、今日置いてきた朝ごはんちゃんと食べました?」
「うん、食べた…美味しかったです」

曖昧に笑う私の顔に、ニキの顔が近づく。じっと見つめられた後満足そうに頷いて「嘘ついてないっすね!」なんて人聞きの悪いことを言う。
ニキがその髪を解いて、そうしてまた結ぶ数時間も含めて私達はずっと一緒に居る。それなのにわざわざ彼の職場まで来てしまうのは、私がとっくに彼の虜だからに他ならない。食事に無頓着だった私を見かねて料理を毎日のように差し入れして、私はそれを食べて。そうしていたらいつのまにかこんな関係になってしまった。言いたいことを言い合えるような仲になってからも、自分は好きなだけ食べる癖して私のの食事には存外うるさい。そんなに食べたらお腹を壊すだとか、冷たいものばかりは体を冷やすから良くないだとか。世話をされるタイプに見えて、ニキは世話焼きだった。

「ニキ、何か欲しいものないの?」
「ええ?唐突にどうしたんすか?」
「だって、誕生日でしょう」

こそばゆい気持ちを抑えてお祝いの言葉だって考えていたのにニキときたら私が起きるのを待たずに家を出て行ってしまうものだから、いつ誰が入ってくるかも分からないこんなところで話す羽目になってしまった。幸い今は他にお客さんがいないけれども、夕方になれば客足はまた増えるだろう。

「うーん、僕は最近無欲になっちゃったんすかね〜」
「無欲?食べたいものとかないの?」

というより、ニキへのプレゼントなんて食べ物くらいしか思いつかない。時間をかけて私のためだけに入れられたコーヒーをそばに置いてからニキは腕を組んだ。

「前は食べても食べても満たされないって感じだったんすけど。今は全然そんなことなくて……。なまえちゃんと一緒に居るようになってから」
「は?」
「なはは、僕もしかして今恥ずかしいこと言ってます?でもほんとのことなんですよねえ」
「……そう」

こんな言葉で跳ね上がるような心臓をどうにかしてほしいと願ってしまった。きっと深い理由はない、ただ本当にそうだと思ったから溢しただけ。それでもニキにとって私がそんな存在で居られることが嬉しかった。

「だから、誕生日は何もいらないっすよ。ただ僕の隣に居てくれたらそれで充分」
「随分殊勝だね」
「あ、でも一個だけ。外もだんだん寒くなってきたんで、店の前で入るタイミング伺わないでさっさと入ってくること」
「…見てたの!?」
「いや〜、見てはないっすよ。だって見えないとこで待ってたんでしょ?」
「じゃあなんで」
「なまえちゃんから金木犀の香りがするんすよねえ。外の匂いが移るくらい近くにいたってことは、長い間立ってたってことっすよね?」

慌てて自分の服に鼻を近づけるけれど、自分じゃ良く分からない。いつ入ろうか、やっぱりやめようかなんて迷いながらうろついていたのはばればれだったということか。ニキは料理人だけあって、味覚だけでなく嗅覚も優れている。だから入ってきてすぐに分かっただろう。

「僕のことで悩むのはかわいいなーって思いますけど、それでなまえちゃんが風邪でも引いたら僕は仕事どころじゃないっすから!」
「大げさだよ、風邪なんて引かないし」
「引いてからじゃ遅いでしょ。良いから言うこと聞いてください」

じとりと見つめられて、いたたまれなくなってこくこくと頷く。そのまま誤魔化すようにまだ湯気の出るコーヒーに口付けた。


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