「海に行きたい」

 燦那からそう言われたのは突然のことだった。


 車で30分、少しばかり遠い場所まで車を走らせる。「突然なのに、車ありがとう」と言う燦那に、「気にすんな」と声をかけた。燦那と行けるならどこへでも嬉しかったから。
 しかし海、と言われると少しだけ胸が痛む。昔、何も言わず消えてしまった彼女を探してたどり着いたのが海であった。燦那はそのとき、海に吸い込まれるかのように暗い海の底へと進もうとしていた。自らの命を絶とうとしていたのだ。
 行くな、と自分でもびっくりするくらいの大声が出たことと、救われた、いや、救われてしまったと言わんばかりの燦那の虚ろな目は、今でも鮮明に思い出せる。
 そんな出来事があってからは突然どこかに消える、なんてことは無くなった。しかし、悪く言えば前科があってから、海に行きたい、と突然言われたらそりゃあびっくりするに決まっている。
言葉の真意は分からないけれど、俺は何故か車を走らせてしまっていた。結局どこへでも彼女と行けるなら嬉しいという気持ちが勝ってしまうものかと思う。
 そんな中、雁字搦めの思考に襲われている俺を知らない燦那は、隣に座って外の景色を眺めていた。


「着いたあ!」

 燦那はそう言ってはしゃぎながら海へと駆け出していく。
 また何かあってはいけないと思い、俺は慌てて彼女の姿を追いかけた。
 しかしそんな俺の心配は目の前の景色によって打ち壊される。燦那は水平線に沈んでいく橙色の太陽を見ながら、ただそこに佇んでいた。ただそれだけだった。時折押し寄せる波が燦那の足元を掠めようが、燦那がそこから動くことは無かった。

「ねえ、光」
「何?」
「これねえ夕凪って言うんだよ」

 夕方、海風と陸風が交わる時に、一時無風の状態になるんだ。
 彼女の言葉に、目を閉じてみた。確かに、少しばかりの風しか感じられない。不思議な現象だと思いながら、彼女はどうしてそんなことを知っているのだろうという疑問にも転じた。

「なんで知ってるの?」
「本で読んだから。どんな感じなのか知りたいなって思って、だから海行こって言ったの」

 ああそうだったのか、とその理由が心の中にすとんと落ちた。
 再び目を開けて、赤と水色の混じった空を見上げる彼女を見る。その瞳は夕焼けに染まっているがどこか光の彩度が落ちていた。燦那の足元からさらさらと抜けていく砂は、彼女の存在にひれ伏しているような気さえした。
 あの時と同じように、何かに導かれるように太陽の方向へと進んでいく燦那の手をぎゅっと強く掴む。それと同時に胸がずきりと痛んだ。
 どうしたの、と問う燦那に、きりと痛む胸を抑えながら彼女に問う。

「その、また、死にたい、と思った?」

 しかし、俺のこの胸の痛みとは裏腹に、燦那はやさしく微笑んでいた。

「ううん、その逆。もっと生きたいと思ったよ」
「このうつくしい景色を、光ともっと見ていたいと思ったから」

 太陽に手を伸ばしながらそう微笑む燦那は、夕日に照らされていてとても儚く見えた。しかし、俺の手からするりと抜けてしまうような感じはしない。しっかりとした存在感があった。
 燦那の表情を見ながら思う。

 ああ、よかった。
 あの時とは違う。
 少なくとも、前よりは、生きていたいと思ってくれたんだ。


 再び家まで車を走らせる。
 もう太陽はすっかり水平線の向こうへ落ちてしまったらしく、同時に燦那も夢の世界へと落ちてしまった。
 燦那が自ら命を絶とうとしたあの日、俺は彼女をきつく抱きしめて、「俺がずっとそばにいるから、先に死ぬのだけは、本当にやめてくれ」と言った。
 あの言葉が彼女に響いたかはその時まだ分からなかったが、今では分かる。
 昔よりかは、俺の雑談や趣味に関して興味を示すようになってくれているし、楽しいとか嬉しいとかいう感情を出してくれるようにはなったと思う。
 多分、きっと、少なからずは、彼女の心を救えているんじゃなかろうか。
 今日海に行って、彼女の表情を見て、それがはっきり分かったような気がする。

"このうつくしい景色を、光ともっと見ていたいと思ったから。"

 寝ている彼女に向かって、その言葉への返答をする。

「うん、俺も、」
「俺も、もっと、見ていたいと思うんだ……」

 だから、お願いだから、先に天国に行くのだけはやめてくれ。
 死ぬまで、ふたりでしあわせでいるんだから。
 家に帰ったら沢山愛してあげようと、燦那のしあわせそうな寝顔を見ながら思った。