夕暮れが窓の外を彩るとき、名前も知らない鳥の鳴き声が聞こえた。私はその鳥の飛ぶさまを眺めて──そして、ため息をつく。
「なに、黄昏てんの」
「うわ、美咲」
「うわって何よ」
突然の声に驚いて振り向く。夕焼け色の教室に、いつのまにか飛び込んできた親友の姿がそこにはあった。制服のジャケットのボタンは全て外され、ネクタイも曲がっている。毎日こんな風に制服を着崩しては生徒指導の先生に注意されている彼女だが、髪型だけは人一倍気を遣っているらしく、ロングヘアだが寝癖は一つもついていなくて、前髪も正しく切り揃えられている。
「探してたこっちの身にもなってよ。もう卒業式のリハも終わったんだし、早く帰りましょ」
「うん……そうだね」
「はあ……にしてもこれ、すごいわね」
美咲はそう言い、黒板の方に目を向けた。つられて私もそちらを見る。毎年恒例の黒板アート。二年生の生徒会役員が担当していて、私も去年描くのを手伝った。しかし今年はどうやらとてつもなく絵の上手い人がいるようだ。黒板の中を飛ぶ、大きな大きな鳥。黄色と赤色で着色されており、強く熱そうな炎が羽から出ている。たぶん、これは不死鳥だろうな。その不死鳥が目指すのは大きな、虹色の光。光へ向かって飛ぶ力強い不死鳥の絵に、皆その美しさと迫力に魅了されていた。話題になって、隣のクラスの人も見に来るほどだ。
「絵描ける人ってほんとすごい。尊敬する」
「わかる。ちゃんと才能だもんね、それって。私も芸術の才能、欲しいなあ」
「あずさはいいでしょ、書道上手いんだから。私はずっと運動一心だったから、芸術とか、よくわからないわ」
「そうかなあ……でも、やっぱり絵って……何か、特別なもの感じる」
そう言って私たちは再び、不死鳥を眺めた。夕日色の教室の中に溶け込んだ不死鳥は、とても綺麗で───。
「終わるわね」
「何が」
「私たちの……三年間が」
美咲の言葉に、「そうだね」と同意する。
明日で長かった高校生活から、私たちは解放される。この三年間、私はかなり逸れた道を辿って生きてきた。正しいと思って歩いたレールが、実は他者と違うものだということを気付くのに、だいぶ時間がかかった。そのせいで私は何人もの友達を傷付けて、失って……でも、彼女……美咲だけは、私の傍にいてくれた、唯一の人間だった。だからこそ大事にしたくて、絶対に嫌われたくなかった。
「美咲……あのさ」
「うん?」
「ありがとね、私のこと……見捨てないでくれて」
「……うん」
「私、人に嫌われまくって、変な噂も流れてたじゃん。本当の噂も、嘘の噂も。その噂を聞いた子たちみんな私の所離れていっちゃったけど、美咲だけは違った。いい自分も嫌な自分も、全部ひっくるめて関わってくれた。美咲のおかげで私は学校生活を生きたまま終わらせられそうだよ」
振り向いた時には、すべてがもう終わっていたあの日。これから何もかもを取り戻せるわけじゃない。私はあまりにも失ったものが多すぎるから。そんな諦念を背負って、私は学校に通い続けた。その中で私があの場所で見つけた、美咲という存在。
「まあ……私の聖域に入ってきたのは、あずさだけだったからね」
「うん…そうだね」
「あなたが、唯一だった」
美咲が言う『聖域』とは、この学校にある、もう使われていない古い図書館のことだ。絶版になった本を探すために訪れたとき、私はその聖域で、美咲に出会った。
美咲はクラスに馴染むことができなくて、でも家にもいたくなかったそうだ。どうしたらいいのだろうと司書の先生にそのことを話したら、特別に古い図書館の鍵を貸してくれたらしい。
「そこが、坂本さんの聖域になると思う」
そんな先生の言葉を借りて、美咲はその古い図書館を『聖域』と名付けていた。
彼女がそこで日々を過ごしていたある時、私はその聖域に闖入した。美咲は、最初は冷たくて口をきいてくれないし、「出て行って」が口癖でもあった美咲。でも私は諦めなかった。だって私は、学校という檻の中から拒絶された存在だったから。つまり、私と美咲は、きっかけは違くても、境遇は同じだった。私たち助けあえるって、二人でなら聖域の外でも生きていけるって思って、そしてどうしようもなく、それを望んだ。毎日彼女に話しかけていくうち、氷が溶けていくみたいに美咲の表情も声色も柔らかくなっていった。
二人なら、大丈夫。そして、私たちは共に、外の世界へ羽ばたくことができたのだ。
「この不死鳥は、私たちね」
美咲は黒板におでこをつけて、そう呟く。
「私なんて留年ギリギリだったのに、他の子と同じように明日、卒業することができる。そのことも、あずさに会えたことも、全部、奇跡でしかないわ」
私の悪い噂が飛び交う空間に無理矢理行き続けた私と違い、二年生の半分を聖域で過ごした美咲は留年の危機がかかっていた。だが一度、外の世界へ、教室という庭から逃げないことを決めてからは、美咲は毎日学校へ行った。生活に慣れないうちは半日、慣れてきたら一日という風に、頑張ってその庭へ、駆け出して行った。
そしてあとは先生の介錯で、美咲は留年することなく三年生になれて、結果こうして同じ日に卒業することが叶った。
美咲はそれを、「奇跡」だと言うけれど。
「ううん、美咲。それは奇跡とかじゃなくて……美咲が頑張った証なんだよ」
私が?と尋ねる美咲に、首を縦に振る。
「だって……私が美咲を聖域から引っ張ったとしても、このまま『行かない』っていう選択肢もあったわけじゃん。でも美咲は、『行く』っていう選択をした。それは、美咲が頑張ったからでしょう。違う?」
一年と半年で、美咲と他の生徒や先生との仲はかなり縮まったと、見ていて思える。学校に復帰できたのは、周りの環境とか、色々恵まれたところはあったかもしれないが、それでも一番は彼女がちゃんと頑張ったから。もう燃え尽きない、その翼を広げて。
「ああ……そうか」
美咲は窓の外に落ちていく夕日を見つめながら呟く。
「私……いや、私たち、ちゃんと頑張れたのね」
茜色の空を見つめながら、そう言いかけて訂正した言葉に、私は気付かされた。
頑張ったのは、私も同じだった。今歩いている場所が逸れた道だと気付いて絶望しても、彼女と同じように、歩みを止めなかった。それは美咲がいたからだけじゃなくて、私自身が頑張ったから。
「……そうだね、うん」
「私たち、ちゃんと頑張って、三年間、生きた」
確信を持ってそう言うと、美咲はこくりと頷いて微笑んだ。その笑顔は夕日に照らされて、より綺麗に見えた。
太陽はもうほとんど沈んでいて、教室内もかなり暗くなっていた。だが、窓の近くにある木の枝に、二羽の鳥が仲良く止まっていたのだけは、はっきりと分かった。
←