彼女の元を去った後の風は一段と強く感じた。目の前の緑は風に吹かれて、ゆらゆらと揺れていた。
 一つ下の後輩と仲良くなってから、玲の笑顔が増えているような気がした。それに気付いたのはあたしだけじゃなく、クラスメイトの一部もそうみたいで、「市川さん、最近元気そうだよね」と話している声を聞いたことがあるくらいで。
 明確だった。玲がその子のことを好きだということ。そしてあたしは、玲のことをずっと縛り付けていた存在だったということが。


 あたしにとって、玲はまるで太陽だった。
 玲はいつだって光の中にいた。彼女の笑顔や仕草、あたしや周りの人にかける優しさ、バドミントンで相手を圧倒している姿。どれをとっても、記憶の中の玲は眩しさで溢れていた。
 幼馴染だった彼女との、小さい頃の記憶を今でも思い返すことがある。夏休みには毎日遊んで笑い合った。公園のブランコであたしの背中を押してくれたのも、転んで泣いたあたしの手を引いてくれたのも、全部玲だった。
 その時からきっと、もう玲のことが好きだった。同性に恋をすることが、他の人とは違うこと、変だということは分かっていた。でも好きな気持ちは止められなくて、次第に大きくなっていって。
 忘れもしない、中学生のとき、初めて玲に自分の想いを伝えた。結果は言わずもがなだった。辛かったけど、それよりも玲があたしの気持ちを拒絶しなかったこと、そして誰にもこのことを言いふらさなかったことが、何より嬉しかった。
 あたしはその時、玲とこんな口約束をした。それは、いつもあたしより優れた玲に対する挑戦でもあったのだろう。

「じゃあ……あたしが玲に何かしらで勝つことができたら、その時は考えてよね!」

 玲はその時、笑って頷いていた。付き合う気なんて始めから無かったのかもしれないけど。
でも、あたしもあたしでずっと考えていたことがあった。これだけ一緒にいるんだから、絶対に振り向いてくれるって。きっといつか、あたしの想いが報われる時が来るって。そう思っていた。
 でも、その『いつか』は、とうとう来ることがなかった。
 太陽はあたしを照らしていたんじゃなくて、ただそこにあっただけだった。

 荷物を取りに行こうと教室に行くと、そこには誰もいなかった。開いたままのあたしの鞄だけが机の上に置かれたままで、時が止まったような感覚を食らう。
 帰らないと。あたしはここにもう、用は無いんだから。あとはあの二人が、結ばれたら、それはそれで、良い……って、わけじゃ───。

「……エレナ?」

 その声に導かれるまま、振り向いた時に目に入ったのは。

「……レノン。どうしたのかしら、こんな時に」
「エレナのことだから、また何かあったのかなって」
「……レノンって、いつもあたしのこと良く見てるわよね」
「まあね」

 玲じゃない、別の女の子。夕日の逆光で姿が見えにくいが、特徴的な短髪がそれが誰なのかを示唆していた。
 佐久間レノン。中学の時から一緒の、あたしのクラスメイト。なんだかんだでずっと一緒にいる子だった。面倒見が良くて格好良くて、女子校であるこの学校の中でも人気が高い。一部の生徒からは『王子様』なんて言われているくらいで。そんな彼女はいい相談相手で、玲のことだって何度も何度も相談していた。玲が好きな子のことが気になって、一緒に誰なのかを探してくれたのも彼女だった。

「……で、どうだった?思う存分、強がれたのかい?」
「……ふふ、どうなのかしら、あれは、ちゃんと強がれたって……言えるのかしら」
「ここでこんな風に泣いてるのを見るに、あの場所では強がれてたと僕は思うけどね」
「……なら、良かったわ。……何よりそれが、良かった……」

 あたしはその場に崩れる。涙が流れてくるにつれ、声にならない声が、だんだんと大きくなっていった。
 幼馴染としての役割。好きだという素直な気持ちを応援したいという想い。それとは裏腹な、彼女を縛り付けていたことに対する懺悔。ついにあたしを振り向いてくれなかったことへの絶望。数多の感情があたしを蝕む。何もかものすべてにおいて、あたしは正しい判断ができていたのだろうか。自分でも分からなかった。
 あたしの泣き声が教室に響く中、あたしの背中に優しく手が置かれる。その手はあたしの背中をゆっくり摩ってくれた。まるで、頑張ったね、と言ってくれているように。

「エレナ、君はよく頑張ったよ。君はわざわざ悪役を買って出たじゃないか。玲が置かれている難しい状況の解決のために、君はいの一番に動いただろう?それだけで、玲はかなり助かったと思うさ。だから今は……思う存分、甘えていい」

 玲が置かれている、難しい状況。彼女の容姿だけに固執する人間が増えたことに対する嫌気と、自分を本当に愛してくれる人間を見つけたいのに、見つけられない、そんな諦念。
 あたしはその状況に苦しむ玲を見ているのが辛くて仕方なかった。出来ることならあたしが幸せにしてあげたかった。でもそれはできないって、どこかで分かっていたから、だからあたしはあの時───玲が好きな後輩である、里浜ゆいという人間に───話したのだ。彼女が告白することは知っていたから、その前に会って、「玲の性格まで見た上で、ちゃんと玲のことを好きだって言えるのね?」と。
 その問いに答えた時の彼女の、あの真っ直ぐな瞳を見た。それは、「自分の痛みに向き合って、ちゃんとゆいちゃんを心の底から愛したい。」と言ったときの玲の瞳に、よく似ていた。

「里浜ゆい。いい子じゃないか。あの子ならきっと、玲のことを幸せにしてやれるよ」
「……あたし以上に?」
「……それは、比べるものじゃないさ」

 そうね、と小さく呟く。
 思う存分に弱さを見せて涙が枯れるくらいまで泣いた今はただ、玲の幸せを願いたかった。あの子、里浜ゆいと向き合って、そして自分の傷とも向き合って、彼女が幸せになれたなら、それでいいのかもって。まだ完全に恋心を捨てきれたわけではない。でも、限りなく新しい第一歩を踏み出せそうな気がしている。
 あたしが地に足を踏み出すと同時に、あたしの翼はいつの間にか、太陽の熱さで焼け落ちて消滅していたみたいだった。


「決心はついたのかしら?」

 ベンチに座って、後輩を待つ玲にそう問う。

「決心、って?」
「あなたが自分の痛みと、里浜ゆいに向き合う決心よ。あたしが見る限り、まだ目には迷いが見える気がするけれど」

 あたしの問いかけに、玲は「確かに、エレナの言う通りかも」と言って立ち上がった。

「でもね、私……向き合えそうな気がするんだ。あの子になら。あの子はちゃんと、私のことを分かってくれるような、そんな気がするの。だから、今はまだ少し迷ってるけど、でもきっと……大丈夫」
「……そうなのね」

 光の灯った玲の瞳を眺めて、確信した。
 もう、あたしはこの人の一番にはなれないんだということ。何年も抱いていた想いは、叶わないのだということ。
 いつになったら立ち直れるかは、分からない。でも今は、ちゃんと自分の役割を果たさなきゃ。
 それがあたしにできること。最大限の、強がり。

「……そろそろ来るかしらね」
「えっ、もう?」
「里浜ゆいの方が動き出したみたいだから」

 あたしは玲の目を見て言う。これが最後だと、そこで思った。

「……あたし、玲のことを好きでよかったわ」


あたしはいつだって、あなたの睫毛、柔らかい髪、あたしよりも少しだけ高い背、一度も着崩したことのない制服、あたしのすべてを見透かすようなその瞳、あたしに向けた無限大の優しさと暖かさ、それらすべてを、誰にも見せない記憶の中で抱きしめていた。