「よっ、元気か」
ニコリ、と笑う彼女のそれに今日も俺は安息を手に入れる。どんなに"汚い"仕事をした後でも、彼女に会えば全てが
和らぐ気がしていた。
「ファーラン」
彼女に会ったのはほんの数週間前。この荒んだ地下街には善意も慈悲も存在しないとばかり思っていたのに、嘘のようにその塊で出来ているのが彼女だった。
「ほらよ、今日の差し入れだ」
出会った時から彼女は、鳥かごの中の鳥状態だった。生まれつき身体が弱く、あまり外にも出たことがないそうだ。地下街は地上と違って治安も衛生も悪い。飢餓で死ぬ人間も少なくはない。…それでも彼女はとても生き生きとしていて、俺なんかよりも全然逞しい子だった。
「こんなにたくさん…いいの?」
「当たり前だろ」
彼女の部屋は丁度窓際にあり、彼女はいつもそこから眺めている。決して眺めのよくない外を、朝なのか夕なのか分からないほどずっと薄暗い外を。
「…なんてったってそれは、」
俺は以前、その事について問うたことがある。こんな腐った世界を眺めていても気分が悪くなるだけだろうと。
"神様に、お祈りしているの"
今迄の俺だったなら、バカバカしいだなんて思っていたんじゃないだろうか。
神様はこの世界全てを把握していて、一人一人をしっかり見ている。だから、一生懸命な人、努力し続ける人には必ず幸せを与えてくれるんだって。強く願えば、必ず叶えてくれるんだって。
…そう、とても楽しそうに話すもんだから、
「神様とやらからの、お恵みだからな」
俺もいつしか、神様とやらの存在を信じるようになっていた。
「今日は何を祈ってたんだ?」
「この街の人の幸せだよ」
「…お前な、そんなことより自分の身体を心配しろよ」
呆れたように言えば、彼女はニコリと笑う。彼女はこの黒く染まった地下には眩しい位純白で、…俺がその地下に不釣り合いな優しさと笑顔に惹かれるのにそう時間はかからなかった。
「私の病気も治して、皆も幸せにして、なんて頼めないよ。図々しい」
「…神様は何でも叶えてくれるんだろ?」
「私の一番の願いは、この街が平和になることだもの。そうすれば、きっと私も良くなれる。そんな気がするの」
「…そうか」
「ね、今日はどんな面白い話をしてくれるの――?」
窓という壁を一枚隔てながら、俺はその日あったくだらない話を彼女に話すのが日課となっている。彼女はどんな話でも楽しそうに聞いてくれた。クスクスと笑いながら、とても興味深そうに。俺はその笑顔が見たい為に、その日その日を過ごしていると言っても過言ではなかった。
俺はこの年で柄にも無く、恋というものの意味を初めて知った気がしたんだ。
「…あー、そろそろ行くわ」
ずっとこんな時が続くんだと、俺は心の何処かで確信していた。彼女がそうするように俺も神様とやらに毎日祈っていたから。彼女の病気が早く治るように。彼女の笑顔が絶えないように。
――なのに、
「―――っ、」
そう、話した翌日。彼女は亡くなった。俺がいつも通りに行った時にはもう、その存在すらなかった。
事の訳を聞かされた俺は、今日も彼女に喜んで貰おうと持っていた"神様からのお恵み"を重力に任せて地面に落としていた。
持病が悪化したからではない。
――殺されたんだ
誰よりもこの地下の人間の幸福を願っていた彼女が、その地下の人間の手によって。
…強盗目的だったらしい。犯人は捕まっているらしいが、でも、どうして彼女を、ベッドから身動きのとれない彼女を殺す必要があったのだろう、なんて。
"神様に、祈ってるの"
彼女はずっと信じていた。目に見えないその存在を。ずっとずっと信じて、懸命に祈っていた。強く願えば、必ず叶えてくれるんだって。
「…、なん、でだよ…」
俺だって信じていた。早く病気が治るように。その笑顔が絶えないように。
…ずっとそんな日が続くと思っていた。ずっとその笑顔が自分に向けられるんだと思っていた。
本当に、大好きだったんだ。
「……っ、」
二度と通ることのなくなってしまった道をユラユラと歩む。二度と会えなくなってしまったあの笑顔を馳せる。二度と口にすることのなくなった名を持つその賜物を、今度は地面へと叩きつける。
…そして俺は二度と祈ることのなくなった、光のない虚空を仰いだ。
神様、あんたほんとは居ないんだろ
(頼むから、そうだと言ってくれ)