「――ったく、手こずらせやがって」


…ああ、死んだ。終わりだ、死んだ。
結局こうなった、結局捕まるんじゃないか。あんなに必死で走り回ったのに、体力削って走ったのに。苦しい思いまでして、あんなに必死で。心臓が飛び出そうなくらい…いや、もう出てしまっているのかもしれないと思うほど鼓動は近く、煩くなり響くだけしか出来なくなっている無能なモノと化している。
ああ、こんなことなら最初から捕まってしまえばよかったのだと開き直りたいほどの絶望感に苛まれる。死に物狂で数分寿命を伸ばしたところで一体何が変わるんだ、なんて。
…だってこんなの、聞いていない。誰か自分に状況を説明してくれないだろうか。何で自分、殺されそうなんですか。
泣くに泣けない。叫ぶに叫べない。

もうなにも、わからない。


「本当にただの着ぐるみだったのか」

「まさかこーんな可愛い子ちゃんが入ってるなんてなぁ?」

「……っ」

「見かけによらずお強いようで」

「…………?」


煩い心臓の音の向こう側にある彼らの会話の先が、ライには全く見えなかった。聞こえていないわけではない。コイツらは何を言っているのだろうと少し怪訝な目を向け、その言葉を頭の中でリピートする。
強い?誰が、自分が?…一体誰と勘違いをしているのだろう。勘違いならとんだ災難である。無実の罪ほど嫌なモノはない。
それに着ぐるみって一体、何の事だと。…着ぐるみ、

…着ぐるみ――?


その言葉にピンときて、あれほど後悔してもう見たくなかった自身の服にライは目を向けた。
鬱陶しいくらいに眩しいそのオレンジ。左胸に刻まれているあのロゴマーク。少し特徴的なツナギの形。目の端に映る白いフード。
自身が着ているそれは、自身が大好きな漫画のキャラクターの着ぐるみ。間違いなく、どっからどう見ても着ぐるみ。

そうして少し落ち着いた思考を巻き戻せば、最初に彼らが言っていた事を思い出す。
…あの、一味がいると。


「!?」


…嘘。いや、嘘。嘘だ。当たり前だ。ここは日本だ。そんなことあるわけがない。ここはニホンで、このキャラクターが生きている世界は漫画の中の世界。…だからそんなこと、あるはずがない。ある、わけがない。


「お前にも、お前さんのとこの船長にも、仲間が世話になってなぁ」


…船長。お前のとこの船長。彼らがこのツナギ(もどきな服)を見てそう言った。紛れもなく、そう言った。認めたくない頭の中は、それでもその名を思い浮かび上がらせた。…所謂それは、あの、


「――おいベポ!!」

「「!!」」


そしてそれは、突然だった。いきなりかかった声に驚きすぎて、自身の心臓が最早停止してしまうのではないかと思ってしかし、そんな我が心にそれは拍車をかけるかの如く目の前に現れる。

白く、特徴的なツナギを着た2人組。そして2人とも特徴的な帽子を被っていた。目深に被られたそれとサングラスをかけられたそれから顔を認識する事は出来なかったのだが、ライにとってその2人組はよく見た事のある人物だった。

…あぁ、これまた嘘だ。これは夢なのだろうかとまたもや戻るその思考。何だか頭がクラクラしたが、額に手を当てて仰け反り倒れたくなる衝動を必死に堪える。それは酸欠のせいか、目の前に広がる光景のせいかは定かではない。


「「…………」」


けれども、驚いているのはライだけではなさそうだった。現れた2人もチンピラと同じで、自分をそれと勘違いしたのは言われなくとも分かる。
そうして微動だにしない彼らは、一瞬何が起こっているのか全くわかっていないような面持ちだったのだが。


「…………ベポお前、女だったのか」

「…っアホかお前!どう見ても違うだろ!」


…いや、あの、ボケとツッコミをかましている場合じゃありません。観点そこじゃないだろうに。


「…っハートの海賊団…!!」


そんな彼らとは打って変わって、チンピラ達はより一層緊張感を上げていた。
そうてまたとライはある事に気づかされる。…このチンピラ達の格好は、"あの世界"でよく目にしたもの――


「……とりあえず、お前はコイツらを」

「ラジャー」


そうして、一瞬。チンピラ達の奇声が発せられると同時、自分の体に浮遊感。


「っ!?」

「掴まれ」


目深にPENGUINと描かれた帽子を被った男にライはお姫様抱っこをされていて。


「え、ちょ――!!」


誰もが一度は夢見るであろう、お姫様抱っこ。けれどもこの状況でそんな事を喜べるほどライに余裕があるはずもなく。
…もうわけがわからない。ハイペースに変わる自分の状況に、ライの思考は置いていかれっぱなしになっていた。



***



先ほどいた場所から程遠くない所で、PENGUIN帽の彼は自分を降ろしてくれた。
そうして包まれるは気持ち悪いほどの緊張感。そして未だ鳴り止まない自身の心臓の悲鳴だけが、やたら煩く耳に響く。


「あー……聞きたい事は、いろいろあるんだが、」


彼が聞きたい事など一目瞭然。けれどもこちらとて、まだ少しも状況を飲み込めていない状態である。
そのPENGUIN帽の彼は紛れもなくあの漫画の世界のハートの海賊団一味のペンギンという"キャラクター"。先ほどいたもう1人の男もシャチという"キャラクター"で、そしてあの男達はただのチンピラではなく紛れもない海賊だということ。
そしてそして彼らが今自分の目の前に紛れもなくいるということも。…全部全部、ありえない事なのに。


「…怪我はないか?」

「…っ」


声を出そうとしたが未だ恐怖に巣喰われた体が言うことを聞いてくれなくて、ライは一つ頷く形をとった。
それによって緊張の糸が解けたように、ガクガクと震え出す体。たまりに溜まった恐怖心が形となって目から零れ落ちていくのがわかったが、どうにも今の自分にはそれを止められそうになくて。


「ぅ、っ、ひっく…」

「!」


怖かった。目の前にある虚構を疑うよりも、今心を占める感情はそれだけだった。
本当にあの海賊に殺されるんだと思った。わけもわからぬままそんな状況に置かれて、ただただ死ぬんだと怖くて仕方なかった。
…でも、逃げてよかった。諦めなくてよかった。数分でも寿命を伸ばすことに意味はちゃんとあったんだって、心底そう思えた安堵感にも押し潰されそうになって。

助けてもらったのにまだお礼を言っていないことはわかっていた。けれども今まで味わったことのない状況に脳はまだ反応しきれていない。声もまだ出そうになくて、溢れ出てくる涙も止められなくて、ライは泣きじゃくることしか出来なかった。


「…あー、ほら、…泣くなよ」

「…っ、うぇ、」

「……まいったな」


ペンギンは少し…いや大分困っているようだった。仲間のシロクマだと思っていたヤツが本当はただの女で、挙句の果てに無言で泣き続けられる状況を一体どういう気持ちで眺めればいいかなんて経験した事もなく。


「…落ち着け。もう大丈夫だから」


だからといって泣き続ける彼女を見続けるのには抵抗があった。…今の自分にできる事、それは彼女を安心させてやる事。ペンギンはそうすることを戸惑う事無く、ポンポンと優しくライの頭を撫でた。
それに驚いてライは顔を上げる。目深に被った帽子から覗くその表情は、怖がらせないようにか微笑んでくれていた。


「うっ...ひっく」

「……そうだな、怖かったよな」

「っ、ふぇ、」

「何で追われてた…って、愚問か――」


大きさはさておいて、自分たちが見間違えるほどに彼女が着るその服は我らの探し物であるシロクマ―ベポそのものだった。胸元のロゴマークも間違いなく自分たちの船の印。フードになっているその白についた耳や顔だって、そっくりだ。
一瞬見ただけじゃ勘違いされてもおかしくはない。あの海賊たちもだから彼女を追っていたということは容易に想像がつく。

…けれども想像の範囲で推理出来るのは、そこまでだ。
何故彼女はそんな格好をしているのだろうか。確かにベポは、はたからみれば愛くるしいクマのキャラクターに見えない事はないが、列記とした海賊である。商品としてキャラクターと化したなど仲間である自分でも初耳だ。誰がそんな事を考えるのか、いや誰も考えないだろう。だとしたらその服は彼女自身が作ったのだろうか。それにしては出来すぎ、傑作である。

しかし、それを着て出歩くなど自殺行為と言ってもいい。今みたいに勘違いする人がいるとは思わなかったのだろうか。そうして追われることも、危険に侵されることも、この世界で生きているなら知っているだろうに。


「……」


憶測だけでは何も紐解けなくて。それに、どんなにそう考えようとしてもどこか腑に落ちなかった。

…何かが違う。何かが、おかしいと。




「――終わったぜ」

「「!!」」


そこへ、戦いを終えたシャチがやってきた。それに気づいてしかしライは泣く事をやめることが出来ず、ペンギンはどうにもできない状況を現すかのように一つ息を吐く。


「大丈夫だったか?」

「ヨユー!ただの雑魚だった。そっちは大丈夫…じゃねえか」

「…あぁ」

「……しっかしまぁ、よく出来てんなー。本当にベポかと思ったぜ」

「……ぐすっ」


混乱した状況にいる事に変わりはないが、泣いてばかりいてはそれを変える事は出来ない。とにかく自分は一命をとりとめた。彼らのおかげで助かったのだから、もう泣く必要なんて無いのだと、ライは必死にその涙を止めようと努力をした。


「…落ち着いたか?」


そうして少しずつ嗚咽することも無くなったライにペンギンが声をかける。
ライはコクンと一つ頷いて返事をした。…とにかく、助けてもらったのだからお礼は言わなければならないと思った。礼儀大事。それはどんな状況に置かれていても、変わらない大切な挨拶。


「……ペンギン、さん。シャチ、さん」

「「!」」

「…あの、…助けてくれて……ありがとうございました――」


精一杯の声でそう言った。まさかあなた方に助けられるなんて思ってもいませんでした、なんて言うことは出来ないけれど、深く深くお辞儀をして態度でもそれを示したつもりだった。

――しかし


「……っ、あぁ、いや、いいんだ!全然!っな!ペンギン!」

「…………」


顔を上げた先にいたシャチにはどこかたどたどしさが、そしてペンギンには怪訝な雰囲気が漂っている。予想外の反応に頭に浮かぶはクエスチョンマーク。…あれ。自分何かおかしいことでも言っただろうか。謝り方を間違えたのだろうかと、グズグズな鼻を啜りながらライが2人を交互に見やっていると、


「……なんで、」


次に発せられたペンギンの声は、どこか低くて。


「俺達の名前、知ってるんだ…?」

「…………え?」


やっぱり、まだ頭は混乱しているようで。置かれた本当の状況をまだ自分は完璧に―いや、これっぽっちも飲み込めてないのかもしれなかった。



back