静まり返った船内。間近に聞こえる小さな寝音だけがやたらと耳を刺激し、乗せてみれば案の定その体は軽く、巻きつく腕は思っていた以上に細かった。


「……、」


今宵の宴を提案したのは、言わずもがなシャチとセイウチだった。本当は彼女を船に乗せると決めた当日にも言われていたのだが、ローはそれを断っていた。船に乗せるとは言ったものの、彼女との間にまだ隔意があったからだ。

…けれどもライと接しているうちに、ローの中にあった疑懼はいつの間にか消えてしまっていた。彼女がこの船の上にいる事にも、不思議と悪い気も起こらなくなっていた。それは彼女が自分の秘密を知っていたという厭忌の感情よりも、自身の秘事を彼女と共有しているというある意味で親近感のような感情が芽生えてきたからなのかは定かではない。


「…………」


ローはゆっくりとした足取りで部屋への道を歩いていた。意識のない背中のそれはやたらとずり落ちそうになり、今度ずり落ちたらそのまま落としてやろうかとおぶり直しては何度思ったことだろう。…この俺におんぶをさせるとはいい度胸だ、なんて。起きて言ってやったときの彼女の反応を想像しては、ほくそ笑む。


「んむ…」


そうして些か乱暴にベッドの上に降ろしてやれば、小さな声を上げてライはその体を縮こませていった。起きたのかと思ったが、次に聞こえてくる規則正しい寝息。…お前はダンゴムシか。とローは呆れ気味に笑い、その隣に腰掛けた。

ベッドの上で安心し切ったように眠りこける無防備な女。吟味するかの如く全身を眺めていると、ふとその左手の小指に光るモノが目に入り、ローは視線を落とした。
…別に気付いていなかったわけではないが、それほど気にもとめていなかったそれ。その全貌を確かめるように、ローはその左手をとる。

小さくて柔らかい掌から伸びる細い指。その甲は透き通った色をしているかのように白く、綺麗だと素直にそう思えた。そしてその小指には、ピンクゴールドの真ん中に小さな飾りのついたピンキーリングがはめられている。見た目からして安物ではない事はローにでもわかった。誰かからの贈り物か、はたまた自分で購入したのか。…いや、きっと前者。おそらく向こうの世界で、彼女を想う相手が――


「…………」


もしも、例えばの話だ。いつもこの手をその隣で握ってきた奴がいたとしたら。この小さな手を守り抜いてきた奴がいたとしたら。…そいつは今、どんな気持ちなのだろう。

"日本"という得体の知れない国からライはここへ突然やってきた。どうやってきたのかも、何故来たのかもわからない。…だから、それは向こうも同じ気持ちな筈で。共に過ごしてきた人が突然いなくなったという現実を、一体どういう思いで受け止めればいいのだろうか。


「…………」


…なんて。比類のないその説話にまた架空の事象を重ねて一体何になる。自分は一体何がしたいのだろうかと、少し自嘲気味に息を一つ吐く。
それにそれを考えたところで自分にはそんな感情わかり得ない。今のローには、失う事を恐れた事なんて無いに等しくて。


「ん…」

「!」


寝返りを打とうとモゾモゾと動き出すライ。その行動が面白くてローが左手を離さないままでいると、その引っ張られる感覚に気づいたのか彼女は動きを止めた。その後どんな行動に出るかなんて深く意識などしていなくて、だから、その手をキュッと握り返された事で自身の"心臓"が機敏な反応を起こすなど思ってもいなくて。


「っ…、」


それが無意識な行動であることはわかり切っていた。掌に触れているモノがあれば自然それを握りしめたくなる原理が働いただけであって、何の特別な意味もないことくらい。…そうしてまた自分が握り返す意味も、無いことくらい。


「……、」


小さなそれから伝わる熱が、ジワジワと自分を侵食していくセンシビリティ。それが慊焉たる想いに変わっていく感覚。


「…………、」


…らしくない。そう思った。思ってローは、振りほどくようにそれから離れた。

そうして視界に入るは、彼女の頭に被さっているそれ。自分の部下がいつも被っている帽子。誰のものか一目でわかる、PENGUINのロゴマーク。…その下に、幸せそうな女の表情。


「……なんでお前が被ってんだよ、」


今更、本当に今更なその言葉を届くはずのない彼女の耳へと運ぶ。…そして何故か、その光景が無償にそれが気に食わなくなって。

ローはそれを、そっとライから外した。



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