「――あ、帰ってきた」
セイウチがそう言って直後、ローは酒瓶に口を付けたままその方を振り返った。
ライの体調を気にしたシャチが本当に彼女を宿まで送って行くこととなり、数十分。少しずつ鬱積した思いが心を占め始めていた矢先、それはようやくこの場に姿を現したのだが、
「遅かったねぇ、シャチ」
少し含みを込めて、自分に代るようにセイウチは言った。…確かに、その節はある。宿までの道はそう遠くはない。だからといって女1人をこの暗闇の中歩かせるのには反対だったし、ましてやいろんな意味でこの世界を知らない女だから、何かあっては困ると思ってシャチに送らせた。…いや、違う。面倒を起こしてこの宴の席を壊して欲しく無かったというのもあるのかもしれない。
けれども、シャチの帰りが遅い事で別の意味での面倒事がローの頭には浮上していた。…まさかあいつ、これを機に手込めようとしてはいないだろうかと。男と女だ。双方とも酔っていたからあり得ないことではない。
「…まさかシャチ、ライちゃん襲ってないよね?」
けれども時間がかかる節は、もう一つある。ローの中ではシャチが彼女を襲う説よりも、そっちの方がクロに近かった。
見る限りでは彼女の体調が至って普通だということはわかっていた。伊達に医者をやってない。ただシャチが勘違いを起こしてそうなっただけだが、ローはそれに何も言及はしなかった。
人にはそれぞれ理由がある。きっとこの場の空気に彼女は酔ったのだ(いろんな意味で)。娼婦がウロつくフロアにいるのは確かに居心地が悪いのかもしれない。クルーが鼻の下を伸ばしているのを見ているのにも、呆れたのだろうと。
それを察したから宿に戻るのを止めはしなかった。…宿に、戻るのには。
「んなことするわけねえだろ!!…アイツ船に帰るって聞かなくてよー」
…やっぱりな。ローは酒瓶を傾け、残り少なくなっていた酒を全て体に流し込んだ。
彼女がポツリと呟いたそれは、ただの本能的なモノだと最初は思っていた。船から降りたことのなかった彼女にとってそこは帰るべき家であって、船を降りたら宿に泊まるという習慣が身に付いていないだけのただの発言なのだと。
…けれども、それを考えれば考えるほど、どこか釈然とはしない。
「船に?…なんで?」
「オレらも同じ宿に泊まるだろ?…皆がヨロシクやってる中で1人おちおち寝てられるかっ!だってよ」
「……ライちゃん僻んでんのかなぁ」
「やっぱそう思うか?」
「……」
何故だろうか。別に気にも咎めるような事ではない筈なのに。ローの中で無性に尾を引くその黒い霧は、一体何をそんなに隠そうと必死なのか。…寧ろそれを晴らそうとしない自分は、果たして何を望んでいるのだろうか。
「あーあ。そんな事なら僕が船番だったらよかったのに」
ピクリ、と。セイウチの何気無い冗談めいた言葉が、ローの鼓膜を揺らす。
「? 何でだよ?」
「そしたらライちゃんと――」
ガタンっ__
あからさまに大きく椅子を引いて、ローは立ち上がった。
「…どうしたんすか?船長?」
「…………寝る」
「寝る…って、早くないっすか?」
「珍しいね船長。どうかしたの?」
「…いや、何もねェよ」
そんな気分だ、気にせず好き勝手やってればいい。それだけ言い残して、ローは酒場を去って行った。
それに気づいた幾人かの娼婦が、狙っていたかのようにその後に続いて行く。
「…やっぱモテるねぇー」
気まぐれな彼の行動には慣れているせいか、さほどそれを気にも止めずにシャチとセイウチは羨むようにその後ろ姿を見送っていた。
*
「――……」
…釈然としない。何が気に障っているのか何故こんなに自分がそれに固執しているのか、考えるだけで面倒臭い。
ただ、釈然としない何かが自分を取り巻いているのが鬱陶しくて。それに阻まれたままでは酒だって美味くはない。美味くない酒を飲むのは気分が良くないし、楽しくもない。だからローはその場を去った。
人にはそれぞれ理由がある。表立ったモノから、…自分ですら気づかない裏に潜むモノまで。
「――船長さん、もうお帰り?」
色目を含むその呼気に立ち止まり、視線だけ振り返る。どこかで見たな、と直ぐ前の記憶を起こせば、最初に寄ってきた"華"の一つであることを思い出した。
「……ねぇ――」
気づけばそこには、何輪か。選ばれるのを待ち侘びる店先の花壇の中のそれのように。
「……――」
…釈然としない思いをぶつけるのには丁度よかったのかもしれない。ローは吟味することなくそのうちの一つを買って、暗闇の中へと消えた。