「――……」


間近に聞こえる波音を目標に、月明かりに照らされてもなお薄暗い森の中を少し駆け足で歩く。途中までシャチに送ってもらい目的地である船まですぐそこだということはわかっているが、不慣れな土地を視界の悪い中歩くというのは多少…いや、かなり怖いものがある。

やはり、といったところか。自分のベクトルが正しい方を選択することはなかった。
宿に行ったって結局酒場のアンビアンスさを引きずる形になると予想していたかと言えば、そうでもない。それは酔っている為かやたらとしつこく理由を問うてくるシャチを納得させる為に考えついた果てのかこち種であって、後から確かにそうだなと自分で納得しているくらいだから、本当はあの場の空気にそれほど嫌悪感を抱いてもいなかったのではないかとも思えたくらいだ。

けれども宿に行ったとして、壁の薄いラブホに1人で泊まるような状況でゆっくり安眠出来ただろうか、…いいや、出来まい。だからこれで良かったのだと、明日の朝後悔しない為の選択はこっちで正解だったのだと、そう自分に言い聞かせることで理由を正当化させた。…それが根本的な理由であると仕立てあげている事に、気づきもせずに。



そうして歩くこと十数秒ほど。開けた視界に映る大きなシルエットが、月明かりによってぼわりと闇の中に浮かび上がった。

けれどもいつも乗っている為か、あまりその全貌をまじまじと見たことがなかったせいか、暗闇に浮かぶその姿は思っていた以上に大きく不気味という言葉が相応しい。規則正しく打ちつける大きな波音がまたそのホラーさを際立たせ、まるでゴーストシップでも目の当たりにしているかのような気分に陥っていく。
…余計怖いではないか。ようやく安堵を手にするかと思いきやまたも恐怖心に蝕まれる事となろうとは思いもよらず、もしやこの船は違う船なのではないかと、本当に幽霊船だったらどうしようかと、ビビる心が織り成す妄想にライが挙動不審にしていた時。


「――ライっ!」


ふいに呼ばれた自分の名。それはこの開けた空間によく響き、やたら大きく鼓膜を揺らした。


「?!…っ」


それにはこれでもかというくらい肩が上りびっくりしすぎて心臓が痛いような気もしたが、そんなこと気にも留めない思考は既にその聞きなれた声の方へと向く。

船の上の方に一つの影。暗くて全容は見えなかったが、けれども浮かび上がるシルエットのてっぺんがそれは彼だと強調しているのがよくわかり、自分を見つけてくれた事に安心したのか、ようやく恐怖心から解放された為か、彼に会えたからかは定かではないが、ライはこれでもかというくらい嬉しい気持ちで満たされてブンブンと手を振ってそれに答える。
ペンギンはその後すぐに見張り台から駆け足で降りてきたが…彼がそうして最初に自分にかける言葉は想像するには簡単すぎて、しかし逆に怒られるのではないかという今更の不安がライに起こる。…そこんとこは考えていなかった。真面目な彼の事だから、寧ろそうなる方の確率のが高いという事を。


「…っお前、何でここに…?!」

「…あ、うーんと、」

「1人で帰ってきたのか?!」

「っ違う違う!シャチに途中まで送ってもらって、」

「何か島であったのか?!」

「っ違――!」


どこか焦っているような彼に怒っている様子はなかったが、想像以上の質問攻めを受けるハメになった。確かに島への上陸を楽しみにしていた自分が夜遅くに帰ってくるなど思ってもいなかっただろうから、それはまあ致し方ない部分でもあるだろう。

とりあえずなにもなく平穏無事であったことを伝えると、ペンギンはようやくマシンガンのように発していた質問を止めた。安心したその表情はまるで父親のようで、けれどもそうやって心配してくれたのが何だか嬉しくて、ライの頬は自然と緩んでいた。


「……悪かったな、」


そうして船に乗りこみながら、ライは考えていたままの理由をペンギンに伝えた。ただ酒場の雰囲気と宿が娼館になるのに抵抗があったからと言えば、確かにそうなるよな、とペンギンは納得してくれたようで。


「え?」

「嫌な思い、させただろ?」


どこか申し訳なさそうにペンギンは言ったが、ライはそれを首を振って否定した。

男の群れに紅一点な状況で馴れ合えない部分が発生する事は致し方ない事。それに、シャチやセイウチその他諸々のそういった所を根っから嫌だとも思った事はない。男の気持ちは自分にわからなくて当然。その部分に自分が関わらなければいいだけの事であって、またそれを自分が否定するのは間違っているのも分かっているつもりである。
…だからこうして帰ってきたのも一つの理由かもしれない。嫌な気分になるのを、彼らの所為にしないように、と。


「ペンギンが謝ることないって。ウチ全然気にしてないし」

「…そうか。……まぁ、俺でも嫌気がさす時はあるからな」

「……やっぱ?」


あの雰囲気が苦手だと言うペンギン。やはり彼はあっちの類ではなかったようだが、それを聞いて、あぁよかった、だなんて。どこか安心する心は、自分の想像を裏切らなかった事への賞賛だろうか。


「やっぱ。…って、どういう意味だ?」

「酒場でさ、ここにペンギンがおったら似合わへんなぁって思ってた。皆みたいにはしゃぐペンギンとか考えられへんかったし」

「…」

「…あ、でも、ペンギンがいてくれたらシャチやセイウチの相手はもっと楽やったかも、とは思ったけどね」

「…っ、何だよそれ」


小さくツッコミを入れながら、どこか照れ臭そうにペンギンは帽子を目深に被り直した。
…そうして感じるは頬の緩み。綻ぶというよりはニヤけていくようなそれをよりライに見られたくなくて、ペンギンは見張り台へと逃げるように足を向ける。

それはきっと、彼女が戻ってきた時から始まっていたのかもしれない。思考の中にいた人物が目の前に現れただけでも驚きだったのに、加えてあの場にいなかった自分の名を連呼するもんだから、彼女が少しでも自分の事をもの思ってくれていたと考えてしまったが最後。完全に悦に入ってしまっている。今の自分は、完全に悦だ。…何故だ。何故――?


「…ウチも登っていいー?」


ちょうど見張り台へと登り終えたところで、下からかかった声。振り返るペンギンが返事をする前に、すでにライは梯子に手をかけ登り始めていた。


*


「わ、すごっ…!」


見張り台に登った直後そう言って、手すりの淵に手をかけ身を乗り出すようにライは夜空を見上げた。
初めてのそれに見せる彼女の反応がペンギンの想像していた通りかそれ以上かは定かではない。けれどもペンギンはその反応に満足したかのように一つ笑みを浮かべると、なにも言わずにライの左隣に並んだ。

海風がふと2人の間を駆け抜け、それによって運ばれたライの香気がペンギンの鼻を撫ぜる。…ふわりと包まれたその空気の中、無意識に。ペンギンは今だ幻想を見つめるライの横顔に目を向けていた。


「……」


クルー達から可愛い可愛いと持て囃されているライ。癒し系というよりは元気で活発なタイプだと最近発覚したが、誰が見ても可愛いと口を揃えて言うであろう彼女を、ペンギンだって確かにそう思っていることは事実である。けれどもそのあどけなさとは裏腹に、彼女にはやはり年上だと思わせる部分があるようにも思えた。この半日で彼女に変化があったわけではない。ただ、ふとそう思ったのだ。
漂ったその香気。満点の星空をまるで鏡のように映して同じように輝く大きな黒いその瞳。月明かりに照らされより際立つ白い肌を持つその頬。…そうして見れば、彼女はとても――


「…綺麗だ」

「ん?」

「っ…あ、いや……キレイだろ?」


…何を言っているんだ俺は。ペンギンは我に返ったようにそれから目を逸らし、誤魔化すように自身も夜空を見上げた。


「うん。こんなん見たことない」


こんな綺麗な星空がいつもあったら見張りどころじゃないだろうとライは思った。自分だったらこれを眺めながら物思いに更けって、敵が近づいてきても気が付かないかもしれない。
思ってペンギンにそれを伝えれば、彼は笑ってセイウチと一緒だなと言葉を漏らした。セイウチは昔そうして敵をこの船に忍ばせてしまったことがあるらしい。…まさかの奴と思考回路が一緒とは。ライは何だかガッカリした。



それからも2人は、何てことないたわいもない話を繰り返した。星空に目を向けながら、時には顔を見合わせながら。…ここに時計はない。けれども2人の時間はそれぞれが過ごしていた時よりも、ずっと早く過ぎていただろう。

そうしてまた、一つ通り抜ける風。先ほどよりもいささか強いそれで乱れそうになる髪をライが左手で抑えたその瞬間、キラリと光った何か。目の端を横切ったそれにペンギンが目を向ければ、それは彼女の小指で小さく輝いていた。


「…なあ、」

「ん?」


ペンギンだってそれに気づいていなかったわけではない。彼女がずっと、出会った時からずっとそれを身につけている事などわかっていた。…それはただのアクセサリー。女の子はそういったものが好きだから、それを彼女が身につけていることは何ら不思議な事ではなく、普通の事だと思っていた。


「……その指輪、さ」


けれども今は微塵もそんな風に思えなくて。頭の中を占めゆくは…それが誰かからの贈り物ではないかという事。


「あぁ、これ?」


これは父親からのプレゼント。ライは何の躊躇も見せずそう言った。


「…父親?」


そう、それはある日。誕生日でもなんの記念日でもない普通の日の、突然の父親からの贈り物だった。誕生日でも現金主義な父親が、何でもない日にこのピンキーリングをくれたのである。パチンコの景品にしては高価そうで、贈り物にしても父がそんなもの買うとも思えなくて。…最初、ライは相当怪しんでいた。


「その上肌身離さず身につけていろって煩くてさ。なんのこっちゃって思ったけど、可愛いからそうすることにしたん」


今では結構気に入って、自慢の品となっているそれ。左手にはめれば幸運を掴めるとかチャンスが舞い込むとかそういった意味があるらしいので、ずっと左につけている。


「……ふぅん、そうか」

「まあ、これを付けてから何かいい事があったかと聞かれると…何もないんだけどね」


現実はそんなもん。それを見つめながら少し残念そうにライは呟いていた。


「……」


誰かからの贈り物。その"誰か"はペンギンの中で一つにしか絞られていなかった。けれども返ってきたその予想外の答えに驚く…というよりは、心は何処か安堵の域に達していて。さっきだってそうだ。彼女が戻ってきて悦に入った心も、この夜空を見た彼女の反応に満足した事だって。…自分は彼女の言動一つ一つでこんなに、


「……あ。あった!いい事!」

「?」

「…ペンギン達に、会えた事!」


こんなにも心を揺れ動かされている、なんて。


「…っ」


冗談っぽくはにかむ彼女の顔をしっかりと目に写せずに。その感情の正体を明かさないように、悟られないように。ペンギンは、無意味にまた帽子を目深に被り直していた。



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