02



「…………」


…あぁ、どうしてこんなことに。あれから幾度となく繰り返してきたその言葉は、もはや自分の中の世界七不思議の7つ全てを埋め尽くす勢いを見せている。

冒頭からあんな体験をしたせいかライは既にちょっとやそっとのことで驚かなくなっていたのだが、未だその脳内を埋め尽くしているのは"恐"という文字。けれども消滅したと思われた"死"という文字でさえ時折その姿を見せ、己を蝕んでいる。…何故かって?そりゃ今自分が置かれている状況が、あの時となんら変わりないような状況だからだ。


「――…と、いうわけだ」


起承転結を完璧に網羅したペンギンの話―己との遭遇の話は、殆どライの耳には入ってこなかった。いや、聞いていたといえば聞いていたが、左から右へと流れていったと言った方が正しい。ペンギンの話の内容よりもライが懸念するのは、目の前に座る白い特徴的な帽子を被った、隈の目立つ男だった。


「……へェ」


ペンギンの話量に比べたった一言でそれを終わらせたその男、名をトラファルガー・ローという。皆さんご存知のとおりペンギンやシャチが所属するハートの海賊団一味の、船長である。

あれからライは哀れな被害者から怪しい嫌疑者というレッテルを張られてしまった。何故ペンギンとシャチの名前を口にしてしまったのだろう。感極まったからといって、自分の置かれた状況を把握し損なってなどいなかった筈なのに。…馬鹿バカばか。我ながら、大馬鹿野郎だ。

仲間の格好を真似、加えて船員の名前を把握しているとなりゃ怪しさ120%ということは自分でも納得なので、ライは2人に無抵抗でついて行くことにした。
…というより、そもそも抵抗する気なんてなかった。あの"有名な"ハートの海賊団に会い、あわよくばそのまま居候させてもらえるかもしれないという淡い期待心が生まれていたからだ。これがあの噂の夢小説でよくあるトリップというやつなのだと。これから自分は、リアルトリップを味わうんだって。


「……確かに、怪しいな」


ライはこの一味が大好きだった。詳細は殆ど知らないけれど、夢にまで見た、憧れていた海賊団。好きだった、トラファルガー・ロー。


「…………、」


…けれども、彼らを間近にしてもライの中には感動や歓喜の念は微塵も浮かんではこなかった。なんせあの漫画はコミカルな部分が豊富で、それでいて彼らが悪者だとも提言していないし(海賊だけども)、そして第一に漫画の主人公を助けるといった良面を持っていた為、自分の中で彼らはいい人達だと勝手に位置付けられている。書かれていた内容から気さくで明るく、楽しい集団だと思い込んでいたのも事実。


「……スパイ、ってとこか?」


現実は理想を裏切るとはまさにこの事だろうか。彼らから放たれる威圧感、オーラは黒く、雰囲気は最悪。自分を見る目は、まるでナイフのように鋭く、腕や指先に掘られた刺青がその怖さを際立たせている。それらが重なって自分にのしかかる淀んだ空気。まるで何かの呪縛のように、ライの体を捉えて離さない。


「…なァ、どうなんだよ?」

「……っ」


怖い。怖い怖い怖い。彼らに対する感情はそれしか浮かんでこない。発せられるその声も、自分を見るその眼差しも、全てが恐ろしくて仕方ない。まるで蛇に睨まれたカエル…いや、虎を目の前にしたウサギのような気分。息さえもまともにしてはいけないような気がして、ライは石のように固まり、当然声を発することは出来ず、その首を横に振ることでさえも出来ずにいた。


「でも…スパイには見えねえけどな」

「すげーひ弱そうだぜ?」

「女ってのは、騙すのが得意だからな」

「こんな可愛い顔してか?」

「女って怖えー」

「気ぃつけろよ、シャチ」

「っ何でオレなんだよ?!」

「お前すぐ騙されそうだもんよ」

「色目遣われたらすぐノるしな」

「っ馬鹿にすんなよ!オレだって――」


大分話が逸れていき場の空気が変わったが、その会話に笑いを飛ばせるほど心に余裕なんてない。しかし張り詰めた空気が緩和され、ライはようやくまともな呼吸を一つ吐き出すことが出来たのだが。


「……で、どうするんだ?」

「とりあえず地下に入れとけ」


口を割るまでは、帰さない。ここに来てから一言も声を発しない自分に、トラファルガー・ローは冷たくそう言い放った。

…黙りたくて黙っているわけじゃない。自分はスパイでも何でもない、ただの一般人だ。…だったら声を大にして言えばいいなんて、出来るなとっくの昔にそうしている。恐怖で声が出ないという体験を今身を持って得るなんて思いもよらない。
彼らに危害を加える気だって毛頭ない。どうしてこんな仕打ちを喰らわねばならぬのだろう。そう意を込めて懇願するようにトラファルガー・ローやペンギン、シャチに目を向けるも、返ってくる瞳に自分の色は映されていなかった。


「…っ――」


…現実は、理想を裏切る。

現実は、これっぽっちも甘くなかった。



***



「――…入れ」

「……」


薄暗く、先ほどの甲板とは打って変わってひっそりと静まり返った場所にライは連れて来られた。この船の一番底にある地下室―牢屋、といった所だろうか。日の全く当たらないであろうその場所に漂う地上より冷んやりとした空気。コンクリート詰の壁から伝わる冷気がより一層その寒さを増加させているような気がした。


「…暫くここにいてもらう」

「……、」


ライはそれに戸惑いを見せる事なく、すんなりとその身を牢へ入れた。
入りたくないのは山々だったが、勢いよく反抗する気力もないし、自分はそんなタイプでもない。とりあえず気持ちを落ち着かせたいという思いが一番で、そうなるとこのひっそりとした牢獄は絶好の場所なのかもしれない。誰にも邪魔されずに今までの事を振り返る余裕が出来そうだが、…けれどもその余裕を活かせるかどうかは、今の自分ではわからない。


「……ここは寒い。早く口を割った方が…お前のためだ」

「……、」


今思えばそれはペンギンなりの優しさ、配慮だったのかもしれない。けれどもライはうんともすんとも言わずに、ただただ冷たいコンクリートの壁を見つめていた。そこから放たれる冷めた空気が自分をゆったりと包み込む。ゾワリと背筋を這うそれは果たして寒さからか、恐怖からか。


「一応捕虜の身だから、世話はしてやると船長は言っていた。……食事を持ってくる」

「……」


何を言ってもライは何も返さない。一体何を考えているのだろうかと少し怪訝な、けれどもどこか哀れんだ目をペンギンは向けた。
何か企んでいるから黙秘しているだけなのか。海賊に追われ恐怖で泣きじゃくり、甲板の上で無実を懇願するような表情を向けてきたそれらは全て…虚飾したものだったのだろうか。


「……、」


そんなことを思いながらもペンギンは、しかしそれ以上何も言わなかった。

…最初は慈悲で、次は疑念。そして今は、憐憫といったところだろうか。
彼女に対する感情が移ろい行く中で、ペンギンは一つ溜息を漏らし静かにその地下を後にした。


*


「――…なぁ、何かあったのか?」

「……ベポ、」


…事の根っこはそもそもコイツだったのではないかと思いつつ、駆け寄ってくる白とオレンジの巨体にペンギンは視線を投げる。

ベポ擬な彼女を船に連れてきた時、既にその本物は船に乗っていたというなんとも哀れなオチはさておいて。今そのシロクマと彼女がご対面するのは非常にマズイと思い、ペンギンはベポ以外のクルー数人と船長にその事実を告げた。…きっとこのシロクマがあれを見たら、飛んで喜び話をまたややこしくする光景が目に見えていたからだ。


「…あぁ、ちょっとな。女を保護したんだ」

「女?メスのクマじゃなくて?」

「…………ある意味そうだろうな」

「え?」


ベポは彼女を見てスパイなどの悪い奴だとは絶対思わないだろう。ベポは人を疑わない。だからペンギンは最初のそれを避けた。善意で海賊なんてやってられない。それによってこの一味が破滅の道を辿ることだけはあってはならないからだ。


「…自分の目で確かめてこいよ」


だが、思いとは裏腹に自然とそれを口にしてしまっていた。「これをその女に」とペンギンは用意していた食事のトレイをベポに持たせた。船長からはまだベポには公言するなと言われていたが…ペンギンはそれをベポに持たせた。


「アイアイ!」


きっと相手がベポだったら彼女もすぐにその口を割るのではないかと、今思えば後付けの理由だったように思う。ベポの着ぐるみを着ているくらいだから、ベポ自体に抵抗はないだろうと。


「……」


それに、彼女をずっとあの寒い地下に閉じ込めて置くのには気が引けていた。…最後に見たあの寂しそうな背中が、ペンギンの目に焼き付いて離れなかった。



back