「…っ、何だ…?」


ライとペンギンの視界を遮っていたそれらは、その叫びが響いて即、何かから逃げるように放射線状に散らばっていった。
そうして開けた視界。…けれどもそこにあった光景は、ライの心を一瞬で凍らせることとなる。


「っ!」


思わず両手で口元を押さえたが、そうしなくとも発しようとした声はきっと音にはならなかっただろう。ドクドクと上がっていく鼓動とは裏腹に、顔から熱がサッと引いていく感覚が体全体を伝う。

そこにあったのは、血まみれで倒れている男の姿。服装からして恐らく一般人。そしてその目の前には、高々と笑い声をあげる男が1人。その声もやたらライの耳に響いて離れなかった。


「っ…!!」


つい今、"殺人"が起ったのだと悟る。何もなかった日常に、それは突然に。まるで通り魔―いや、それよりも性質が悪いのかもしれない。そういった事をニホンでも経験した事のないライにとって、それは己自身に多大な衝撃を与えた。


「チッ、海賊か――」


運が悪い。ペンギンは苦虫を踏みつぶしたかのように反吐をもらした。よりによってライといるときに出会うなんて、迂闊だったとしか言いようがない。こんな長閑な街で、まさかそれが起るとも想像だにしていなかった。

そうしてペンギンが振り返って見たのは、目の前の光景に絶句して青ざめた顔をしたライ。彼女の両手は小刻みに震えており、その目元が涙で滲んでいくのが嫌でもわかる。


「…っ」


苦しそうな男性。その下に広がっていく赤い液体。笑っている男。その男の手に握られた銀色に光る刃物。その全てがライの脳に焼き付いた。
そうしてショートした脳は、ライの目の前を一瞬黒に染めた。


「っ、ライ!」


支えを失った彼女の体をペンギンが抱きとめる。我に返ったライはそれでも、彼の支えが無ければ普通にも座っていられない状態だった。

男は、その一連の動きに気づいていた。そうして血まみれの男を見下ろしていたその目がスッとこちらに向けられて、


――っ、


男とライの視線が交わる。それはいつか追われた海賊のものよりも鋭く殺戮に飢えたような眼。
ゾワリ、と背中が泡立った。
身体を蝕んでいくように広がる恐怖に耐えきれなくて、ライは慄然とした思いの助けを求めるようにペンギンの服をキュッと握った。

恐怖に慄くライを支えながら、ペンギンはターゲットを自分たちに変えた男をただただ睨む事しか出来なかった。こんな状態のライを放って戦うことなど―否、違う、そういった光景をもう彼女に見せてはいけないと思った。…これ以上彼女の恐怖心を煽ってはいけない、ここで己が争いを起こしては、いけない、と。


「っ、クソ――!?」


どうするべきか。ペンギンが必死にその選択を迫られる中。…それが現れたのも突然だった。


「――ライを連れてここから離れろ」


2人の前に立ちはだかったそれは、ライもよく見たことのある風貌の男の後ろ姿。


「っ、船長、」


どこから騒ぎを聞きつけたのか、はたまた船長としてクルーの危険を察知したのかはわからない。愛刀に手をかけた臨戦態勢のローが2人を振り返ることはなく、そして彼はそれ以上何も言わなかった。


「…ライ、掴まれ」


そう言ってペンギンはライの背と膝下に腕を回し、ライを抱き上げる。
…あぁいつぞやにもこんな事が会ったな、と頭の片隅で思いながら、ペンギンは瞬時にその場を去った。


*


「――大丈夫か?」


少し離れた場所でペンギンはライを下ろし、すぐさま顔を覗き込んだ。先ほどよりは幾分顔色はよくなっていて、頬を濡らしていたそれも止まっているようで、ペンギンは少し安堵したように息を漏らした。
...が、この状況に、隠せない己の戸惑い。

ああいった事を日常茶飯事に感じている自分と、それ一つでこんなにも取り乱してしまったライとの"相違"。あぁ本当に彼女はこういった世界に身を置いていなかったのだと、彼女はこういったことに免疫が無いのだと、嫌というほど思い知らされた気がしたからだ。
そうして彼女をその腕に閉じ込めてしまえば、彼女の恐怖心も自身の戸惑いも消し去ることが出来ただろうに。けれどもペンギンはそうしなかった。…否、出来なかったのだ。何が自分をそうさせているのかはわからない。そうしたくても、出来なかった。それはただ自分にそういった度胸が無いだけなのか、…彼女と自分の間にまだ距離がある事を、悟った為か。


「…もう大丈夫だ」


だからあの時―最初にライを助けた時と同じように、ペンギンはライの頭を撫でることしか出来なかった。
しかしあの頃と今の状況には、明らかに差違がある。…それは彼女に対して慈愛の心が、彼の中に芽生えているという事。


「……うん」


ライは徐々に落ち着きを取り戻し、ようやく声を発する事が出来ていた。
そうして見上げたペンギンの表情。ライもペンギンと同じで、過去に似たような事があったなと思い出していたが、あの頃とは確実に空気が違うとも感じていた。彼が醸し出す雰囲気は柔らかく、優しくて、温かい。それに包まれれば、自然と体の震えも止まっていた。



ガサッ_


「「!」」


そこに、一つ現れた音。それに2人が同時に振り向けばそこには。


「…船長」

「……何があった?」


現れた我らが船長は、何事も無かったかのように"普通"に見えた。そうしてライの元まで来てしゃがみ、ペンギンに事情を説明してもらいながら、おでこに手を当てたり手首を取って脈を測ったりしている。…ライはただ黙ってローのその行動を見ていることしか出来なかった。


「…軽い貧血も起こしてるな。来て早々だろうが、船に戻って休め」


ライはそれにコクンと一つ頷いた。あんな事があって直後、もうこの街を普通には回れそうもないから。


「…なら、俺が――」

「いや、俺が連れていく。お前は昨日船番だっただろ、羽根でも伸ばしてきたらいい」


ローはペンギンの言葉を遮り、ライを抱えた。この短時間で二度目のお姫様抱っこに、しかもローにされるとは思ってもおらずライは少し…いや、かなり動揺。


「っ、じ…自分で歩けます…!」

「うるせェ。落とすぞ」

「…………、」


どうしてこう…この人はこんなに強引なのだろうか。ライはその一言でだんまりを決め込み、大人しくローに抱えられることにした。

…そんな2人の後ろ姿を、黙って見送るペンギン。


「……」


どうしてだろう。船長の彼女に対する態度に、すごく敏感になっている自分がいる。"羽根を伸ばしてこい"と言った彼のその言葉がやけに荒々しく聞こえた事も、彼が彼女を抱えて歩いていくその意味合いだって、きっと気のせいで何も無いはずなのに。

2人の姿がその場から消えても尚、ペンギンはその場を暫く動かなかった。



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