「…………」


街の騒音が遠くなり、辺りに木々の擦れる音と一つの足音しか響かなくなった頃。ようやく平常心を保つようになった心は、けれども別の意味で鼓動を上げ始めていた。

…気まずい。ゆっくりとした足取りで歩くローは、あれから一言も発しない。そんなローに自分から声をかけるなどもっての外で、寧ろ彼が黙っているのは何か怒っているからではないのかとライは一人歩きする妄想の相手に忙しかった。
それに普通なら両腕を彼の首に回すのかもしれないが、そんな事恐れ多くて出来そうもなく。結局やり場に困った手持無沙汰なそれで既に乾いた涙の跡を拭ったりして、その場をやり過ごす事しか出来なかった。


「…」


…そんな中、同じように困っていた目のやり場が最終的に捉えたもの。それは昨日、彼の肩に担がれていたもので、先ほど彼が手にかけていたもの。
本当は見て見ぬフリをし続けようと思っていた。しかし、それは嫌でも目の隅に入って視界から消えてくれない。…まるで目を逸らすなと言うかのように。


「……、」


…先ほどの海賊はどうなったのだろうと、ふと思う。それと対峙した彼が今ここにいるということは…恐らくきっと"そういうこと"なのだろうけれど。


「――初めてか」

「?」

「ああいった事を見るのは」


いきなりローが言葉を発した事に驚いてライは間近にあったその顔を見上げたが、いささか近すぎたそれにまた驚いて視線をすぐに下げ、返事の代わりにコクンと一つ頷く。


「……これからああいう事は偶然じゃなく、必然になる」


あの場所をローが通りかかったのは、たまたまだった。悲鳴が上がった瞬間に、あぁこの長閑な街にも不当な事があったのだと、その時はそれほど気にも留めていなかったように思う。…まさかそれに彼女が巻き込まれているなんて、誰も想像だにしないだろう。

彼女がそれに衝撃を受けたと同じように、ローはライの状態に"衝撃"を受けていた。この世界でああいったものが起こる事を例えば知識として把握していたとしても、それらへのフレキシビリティが彼女には備わっていない。…自分が思っていた以上に、彼女は非力な人間だったのだと。


「すぐにとは言わねェ。…だが、慣れろ」


そうしてローが思ったのは、ライがそういった事に対して"トラウマ"を作ってしまうのではないかという懸念。それが彼女の中に刷り込まれてしまえば、今後もっと厄介な事になる。だからローは自らライに話している。自分たちといればそれが嫌というほど起こる事をきっと彼女はわかっていない。わかっていても、"理解"していないだろうから。

誰も最初からそれを受け入れる覚悟を持っているわけではない。人はそれに遭遇して初めてその覚悟を、その耐性を身につける。それがこの世界だとローは言った。…否。ローにはそうとしか言えなかった。


「……、」


はいわかりました、なんて。即答出来たらどんなに良いだろう。
頭の中を去来するあの光景は、きっと自分の中から消えてくれないだろう。どんなに忘れたくても、ずっと心に巣食い続けるだろう。
これから次々に自分の身に起こったとして、例えば積み上げられた煉瓦が壁になって耐久性を備えるのと同じように、自分は強くなれるのだろうか。…積み上げることに疲れてそれを一瞬にして崩してしまえば、自分はそれに一生埋れて出てこれなくなってしまうのではないだろうか。


「…………」


結局ライは何も言えずに、俯いてしまった。


「……安心しろ。間違ってもお前をあんな目に合わせたりはしない」


何を思ってそんな事を口走っているのかと、言ってからローは意識する。"仲間"として迎え入れた彼女を守るのは当然という意味でとれば、その言葉が自分の口から出たのは自然ななり行きなのだろうが。
…きっと彼は気付いていないのだろう。その時受けた衝撃が、それだけでは無かったという事に。


「……――」


…それから二人の空気はまた、沈黙に溶けていった。



***



「――ライ!もう帰ってきたのか?」


甲板にいたベポは自分たちに気づいて、船を駆け足で降りてきた。つい数十分前に船を降りた自分が船長に抱えられて戻ってきた状況を見れば、何かあったと思うのは必然かもしれない。


「どうした?」

「……"体調が悪い"クセに無理して出てきた馬鹿を返しにきたんだよ」

「ライ具合が悪かったのか?」

「……え、あ、うん…」

「しっかり面倒見とけ、ベポ」

「アイアイ!」


ローはそこでアッサリとライを離し、船へは乗り込まずに元来た道を帰っていく。
ライはただその背を黙って見つめていた。…お礼を言い忘れたとふと気づいたのは、その背が見えなくなってからだった。


「ライ、部屋で休む?」

「…ううん、大丈夫」


"体調が悪い"だなんて。あれはただシャチが自分の発言を取り違えただけだという事も、それが言葉の綾である事も、あのトラファルガー・ローなら気づいていてもおかしくはないのに。
なのにあえてそれを強調したのは、自分の事を気遣ってなのか、ベポに無駄な心配をさせない為か、…ただの嫌味か。


「……」


それは、ライにはわからなかった。



***



「――あれ、ペンギンじゃん」


ペンギンがあてもなく街中を散策していた時。聞き覚えのある声が横からかかった。


「…1人か?」

「そっちこそ。…ライちゃんと一緒じゃないの?」

「…………いや、ライは船にいる」

「あそうなの?」


なーんだ。とつまらなさそうに言って、セイウチはペンギンの隣に並んで歩きだした。…ペンギンが即答出来なかったのは、あの事をセイウチに話すべきか迷ったからだ。


「…何でそういう時に限ってオレ船番じゃないのかなぁ」

「……俺が知るかよ」


そういう運命なんじゃねえのと適当に返せば、セイウチは余計つまらなさそうに口を尖らせた。…大体いつも船番を嫌がるクセに今日に限ってそんな発言をする理由など考えなくともペンギンは分かっている。

セイウチはやたらライと絡みたがると思う。彼女を船に乗せた時からそれはずっと変わっていない。ただの興味心なのか揶揄を楽しんでいるのか、はたまた本当にそういった目的を持っているのかはペンギンにはわからない。
…ただ一つ言えるのは、ペンギンにとってそれが少々気に食わないということ。


「…………お前、間違ってもライに手出すなよ」


そうペンギンが言った瞬間。セイウチの動きが一瞬止まったのは…果たして気のせいだろうか。


「……何言ってんのペンギンちゃん」


大体いつもペンギンが(そうでなくとも誰かが)お目付け役でついているから隙なんてないし、既に船長のお気に入り(クルー達の間ではそうなっている)である彼女をどうこうするつもりなどない。それに彼女に対する自分のそれがただの戯れでしかない事だって、ペンギンはわかってる筈だとセイウチは言ってのけた。


「…ちゃん付けすんなっつってんだろ」


アッサリと言い放たれたその言葉達に、安心なんてしていない。それを聞いたところで何故自分が安心せねばならないのか、なんて。…どこか躍起になっている気もした。先ほどの船長の行動も今のセイウチの発言も客観的に捉えるならば、彼女が特別な意味合いを持つ―ただの"仲間"だという認識でしかないのに。

…それを一番蔑ろにしているのは、寧ろ――


「…そういうペンギンが一番危ないんじゃないの?」

「は?」


ピタリ、とペンギンは動きを止めた。そうして振り返ったセイウチのシニカルな笑みに、何だか心根を取り除かれたような感覚になって。


「……馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」


そう、そんな馬鹿なことなどない。あるわけがない。ペンギンは言い聞かせた。
…そうして最後に浮かんだのは、何故かあの時の―泣いている彼女の姿だった。



back