「…………」


…気まずい。その原因の説明を第三者に任してしまったが為に生まれた2人の間の静かな空気に、ライはあの時と同じ…しかし微妙に異なる心緒でいた。

船長室に入るとローはライをベットに座らせ、棚に羅列された薬瓶を幾つか取り出してはライの近くに放り投げる。扱いが雑だなと思いつつもライはその行動をただ目で追っていた。…彼は今だその口を開かない。同じくしてライもそうしようとは思っていなかった。


「……足、出せ」


たった一言。きっとそれが彼の普通の声色であることもいつも聞いているならばわかっているのにもかかわらず、いつも以上に重く感じたのは彼に手当をしてもらっているというこの状況がそうさせているのかもしれない。申し訳なさで一杯で、けれども謝る理由なんてきっと何処にも存在しなくて。やはりライの口から言葉が紡がれる事は無かった。


「……」


傷は深くもない、寧ろかすり傷―というよりはただ擦れて赤くかぶれているようなものだった。
両手と両足の同じ箇所にそんな傷がどのような経緯で生まれたのかなんて、きっとこの時のローは薄々気づいていたのかもしれない。だから彼は何も言わなかった。きっと彼女が受けた傷はこの傷よりも、もっともっと深いものだったのだろうから。


「…次、手だ。こっちの方が傷が深ェから沁みるかもな」

「…っ、い、」

「我慢しろ。すぐ終わる」


足首も手首も力を入れればきっとすぐに折れてしまいそうなほど細く、本当にこれは自分と同じ成分で出来ている骨か、と疑う。いや、そういえばコイツは他世界から来たから違うかも知れない。…とどうでもいい事を考えながら、ローは手当てを進める。


「……」

「…今は酷く見えるだろうが、心配するな。すぐに痕も消える」


そうしてすぐに処置は終了した。ローは瓶を片付けようと立ち上がり、ライは薬の塗られたその手足首に目を向ける。綺麗に手当てされたそれは、いつもの彼の苛斂さからは到底伺えないが、そんな事死んでも口には出来ない。…あぁ彼は本当に医者なのだと、この時ようやく実感した気がした。


「……あ、あのっ、」

「?」

「…………ありがとう、ございます」


深く頭を下げるライのそれは、精一杯の彼女の声だったようにも思う。今のその姿はきっと自分への委縮。そんなに自分は怖いのだろうか…と多少身につまされても結局それをどうする事も出来ないのだが、ローは棚へ薬瓶を戻すとその足をまたライの方へ向けた。


「…疲れただろ。今日はもう休め」


ローはその手をライの頭に落とした。優しく労わるようなそれは母親が子をあやす様なもので、その時一緒に落ちてきた彼の笑みは、今までにない柔らかいものだったような気がした。



***



_コンコン、


それから小一時間はたっただろうか。ローの部屋にようやく現れたペンギンは、その部屋の主の返事も待たずに扉を開けた。

そうしてペンギンの目に映った、ソファの上で優雅に―まるで嵐があった事すら思わせないくらいに静かに本に目を落とす船長と、ベットの中にある一つの小さな塊。自分が入ってきた事にも動じないそれは規則正しく上下したままで、きっと今頃夢の中なのだと悟る。


「…嵐は抜けた。それほど酷くもなかったが、」

「……そうか。御苦労だったな」

「…あぁ」


ペンギンはローを見やることなくベッドの方へと近づいていく。すっぽりと布団を被って、しかしその隙間から覗くライのその顔は夢の最中でも強張ったものとはなっていなくて、ペンギンは一つ安堵の息を漏らし、そしてそこでようやく船長を振り返った。


「…………拉致か、あるいは買主か」

「…後者だ。……迂闊だった」


語尾の声は小さく、次第にペンギンの拳に力が入っていくのが目に映る。きっと彼はそれを自分の責任と感じているのであろうと、ローは思った。

あの時。言ってしまえば、ライを任せるのは別にアシカでもベポでもよかった。なんなら一番懐いているであろうベポが良かったのかもしれない。けれどもそれをペンギンに任せたのには少なからず理由があったとローは思う。彼が自分の右腕で最も信頼を置ける人物だからとか、彼に任せておけば堅実だからとか。…いや、一番は普段における彼の彼女への配慮を想えばだったのかもしれなくて。
だからと言ってライをこんな目に遭わせてしまった事に怒りなどは生まれなかった。…根本的に悪いのは、そもそもこの島に彼女をあげた自分だからだ。


「船長。…俺は一つ心に誓ったことがある」


ペンギンはそう言ってローに顔を向ける。…ゆっくりと、交わる2人の視線。


「俺はライを…もう二度と危険な目に遭わせたりしない」


彼女は俺が守る。そう言う彼の声色と帽子の下から覗くその深い瞳の中に見える、しっかりと根付いた決意の芯。


「…………目を覚ましたら、呼べ」


パタンと、静かに本を閉じて、ローはその腰を上げた。
…そんな彼の声を聞いたのは、そんな目を見たのはいつぶりだろうかと少々逸れた方へと逃れようとする思考を連れて、ローはその部屋から出ていった。


「……――」


それはどこか、自分への宣戦布告にも聞こえていた。



***



「――……ライ」


うっすらと開いた瞳に飛び込んできたのは、壁の白ではなくツナギの白。今だハッキリしない眼前。それでも降ってきた声とそのツナギの上にある紺色の帽子が、脳に彼という存在を認識させる。


「…大丈夫か?」

「…………うん、大丈夫」


言葉の意味を込めて一つ笑みを零せば、ペンギンもフッと一つ微笑んでくれた。
何故この船長室に彼がいるのか寝ていた自分にはわかるわけもなく、そうして体を起こして辺りを見渡すが、あると思っていたこの部屋の主の姿はどこにもなかった。ペンギンに問うても、ここにはいないとしか返ってこなかった。

あれからどのくらいの時がたったのだろうかと時計に目をやると2時間は経過しているようで、そして彼が来てからは30分程経っているとペンギンは追加で教えてくれた。その言葉に彼がずっと待っていてくれたのかと思ったら、申し訳ないと思うと同時に少し高鳴なる心。
…そんな心に追い打ちをかけるように、気付けば不意にペンギンに左手を取られていて、


「…大事なものだろ」

「…っ、」


ペンギンがポケットから取り出したのは、小さく光る指輪―自分が身に着けていた、ピンキーリングだった。
ペンギンはゆっくりとそれを小指に嵌めていく。何かの儀式を想像させるそれに、ライは少なからず…いや尋常じゃないくらいに顔が火照るのを感じた。


「……もう外すなよ」


あの時―男たちに捕まった時。ライは咄嗟に小指のそれを外していた。すぐ戻ると言ってくれたペンギンに事態を知らせるサインになればいいと思ってそうしたのかは定かではないが、何か痕跡を残さなければと危機本能が作動したのかもしれない。
結果としてそれはしっかりとペンギンに伝わっていた。肌身離さず付けているといったそれをライが外して置いて行ったのは、何かあったのだと瞬時に彼に悟らせたのだった。


「…うん」


心の中で何度もペンギンの名を呼んだ。あんな状況でも、ライにとって彼が助けに来てくれた事は本当に心嬉しいことだった。
…そんな気持ちと、今の心境で。心の中から消えない彼の存在―自分の中でのその存在の意味を、ライはようやく気付いたのかもしれない。彼がいないと不安なのも、彼がいると安心するのも、そうして彼を頼っているのも。それは、自分が――


「…ありがと、ペンギン」


照れくさそうに、しかしそれはいつものライの笑顔だった。

久々に見た彼女の笑みにドクンと高鳴るペンギンの胸中。…あぁ、自分が求めていたのはこれなんだと。彼女にはやっぱり笑顔が似合う。泣き顔なんて相応しくない。彼女にはそうしてずっと太陽のような笑みを浮かべていて欲しい。隣でずっと、ずっと。だから――


「…もうあんな思い二度とさせねえから。……俺、お前の事――」



__ドタドタドタドタ…


「「……?」」


ペンギンのいつにもない真剣な目と視線が交わった瞬間。その騒音は、何の前触れもなく。


「ライーーーーーー!!」

「ライちゃーーーん!!」


それはあの時の―ベポの再臨のような光景だった。ノックも無しにそこへ飛び込んできたのはシャチとセイウチ、そしてベポ。3人はペンギンに目もくれずに、すごい勢いでライの前まで迫っていて、


「ライ大丈夫か!?」

「ライごめんね、怖かったよね」

「僕より先にライちゃんに手を出そうとするなんて許さ――」

「っその前に俺がお前を許さねぇよセイウチ、どけ!!」


ペンギンを押しつぶしていたセイウチ、許可なく船長のベットに足を上げているシャチ、何も悪くないのにものすごく凹んでいるベポ。…そして、自分を心配してずっと傍にいてくれたペンギン。静かな空間に流れていた時はあっという間に騒がしい場と化し、今まで自分の中にあった暗い闇を一瞬で取っ払っていく。
…それを見れば、創らなくとも。ライの顔には自然と笑みが溢れていた。

仲間となって日の浅い自分に彼らはこんなにも親和感情を抱いてくれていて、そうして自分をその雰囲気に溶け込ませてくれる。自分は彼らに愛されているのだと実感出来た気がした。…あぁ、これが仲間というものか、なんて。この世界に来て初めてライの心に芽生えた情感は、"相違"を感じていたのは自分だけだったのかもしれないと、彼女のそのディストレスを少なからず陶酔させてくれた。


「……――」


…そんな彼らの様子を、外から眺めている一つの影。

フッと一つ、口角を上げて。その影は明るみに出ることなく静かにその場を去って行った。



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