バタン、
「っ、」
重くるしい地下の扉が閉まる音を聞いたと同時。押し込められていた不安、恐怖、焦燥、悲傷の思いが一気に沸き起こるように目から溢れ出した。拭っても拭っても頬を濡らすそれは、周りの空気や彼らの目と同じで、冷ややかで冷たかった。
何故自分はこのような事態に陥っているのだろうかと、何度も頭の中を駆け巡っているその思考をふいに引き止める。トリップしたことに間違いはない筈で、非現実の世界にいることも…よく、わかっているつもりだった。
けれどもその世界が自分が想像していたものと180度異なる世界であることは、結構なショックをライに与えていた。トリップなんてちっとも楽しくない。あれがただのディリューションにすぎないということを、そんなうまい話がゴロゴロとそこらへんに転がっているわけがないのだと、嫌という程思い知らされた気がしたからだ。
そして何故、何故自分はここにいるのかという根本的原因を掘り起こす。…一番考えなくてはいけない部分はそこだ。
自分はここに来る前、何をしていた?…いやだから何もしていない。いつも通りの日常を過ごし、いつも通りこのベポの着ぐるみを着て、暖かい布団で眠ろうとしていただけだ。あの時確かに自分はそこにいて、そこでその場所で眠りに落ちたハズだった。
「…ぅぐっ、…ひっく――」
…なのに。目を開ければそこに広がっていたのは、見たこともない鮮やかな緑色たち。それが草木だと脳が認識するのに随分時間がかかった。起きたらまた夢を見ていた、という夢なんだとも思った。
けれどもその可能性の無さに気づいた時には、目の前に数人のチンピラ(海賊)が現れていて、それどころではなくなって――
「…っ――」
トリップに憧れていた。つまらない日常から抜け出して大好きな漫画の世界、大好きなゲームの世界に飛んでいけたら、なんて。夢のまた夢に夢見て、その世界のヒロインになって。仲間になって一緒に旅して、恋なんてしたりして。
…そんな自分の考えをまさかこんな形で現実として粉々に叩き壊されるなんて。一体誰が想像していただろう。
この世界はあの漫画の世界。それは紛れもない事実。…そしてこの世界は大海賊時代で、殺戮が日常の世界。それも紛れもない、事実。
忘れたわけではない。――殺される。あの恐怖は今でも鮮明に脳に、ライの体に焼き付いて離れない。憧れていた海賊団からのまさかの仕打ちも、そうだ。暖かく迎え入れられるなんて考えていた自分がそもそも愚かだという事は言われなくてもわかっているが、彼らが列記とした海賊であるという事実、そしてそれがこの世界では当たり前だという事。それに気づけば体がゾワリと泡立つのを感じた。
現世界で言うなれば、自分は戦争真っ最中の国に体一つで乗り込んで行った世間知らずな馬鹿と同じ。自分がこの世界の事を知っていようが、向こうは何も知らないわけで。向こうにとって自分は、そこらへんの一般人と同じなわけで。
「…、もうヤダ……っ、」
帰りたい。今心にある願いは、それだけだった。大好きだった海賊団に会えたとしても、それとこれとは別問題。この世界で自分は生きていけない。トリップしたいなんてもう思わない。こんなことなら、現世界で楽しくディリューションを繰り返して平和に暮らしている方が100倍いいに決まっている。
「……っ、ひっく――」
考えれば考えるほど、涙が止まらなかった。このまま自分はどうなるのだろう。助けられたと思ったのに、殺されてしまうのではないかとそればかりが思考回路を駆け巡って止まなくて、
ギィ_
「っ!」
と、その時だった。ペンギンが出て行ってから開くことのなかった重い扉が、開く。薄暗かったその場所に差し込んだ光が少し眩しくて、ライは一瞬目を凝らした。
「…………?」
そこには、大きな巨体。光を遮るようにその巨体が作るシルエットは、てっぺんに突起物を二つつけたモコモコしたもの。
「…………お、おれですか?」
現れたその巨体がポカンと口を開けてそう言う。…いや、そうしたいのは寧ろこっち。
本当にクマだ。クマが喋っている。思っていた以上にでかいクマが、喋っている。わかっていても実際に会ってみるとその衝撃は大きく、ライはそれと同じ格好をしているにもかかわらず得体の知れないモノを見る目で目の前の巨体を凝視していた。
「っおれだ!すごい!おれじゃん!!」
その巨体―ベポは不審がるどころか、とても嬉しそうに自分を眺めてきた。最初の彼らとは違うその視線は、けれどもライの中に植え付けられた恐怖心を即座に拭うことはなかった。
「それ、キミが作ったの?」
ブンブンと首を振って、否定する。
「そうなのか…わ!顔までついてるぞ!」
「……」
「おれってそんな顔してる?…もうちょっとカッコ良いと思うんだけどなぁ〜」
「……」
「ね、キミはどうしてそんな格好してるんだ?」
「…っ」
「もしかして、おれの――」
「――よせ、ベポ」
「「!!」」
いつからそこにいたのだろうか。気がつけば、扉のところにトラファルガー・ローが立っていた。
そうしてシロクマに質問攻めされるという貴重な体験の最中、明るいトーンのそれに徐々に溶解しだしていた自身の心は、上から降ってきた冷たい声によってまたと凍結へと向かう。
「…キャプテン」
「馴れ合うのはよせ。ソイツの得体はまだ知れてねェんだ」
「……ア、アイ、」
「…ったくペンギンの野郎……余計な事を――」
チッ。あからさまに自分に聞こえるような舌打ちを残して、トラファルガー・ローは去って行った。
何しに来たのだろうかという疑問よりも、やはり心を占めるは恐怖の二文字。…あぁ、怖い。あんなに怖い人だなんて思いもしていなかった。ベポやペンギンとはあからさまに自分に向けるオーラが違う。それは首元にずっとナイフを突きつけられているかのような錯覚をもたらすほど。またもや自分の心は、より深く"恐怖"に蝕まれていくのだった。
「…ぅっ」
「!」
もうどれほど泣いたかわからない。体中の水分を全て出し切ってしまうのではないかと思う程に、それは溢れて止まなかった。
怖い。怖い怖い怖い。
帰りたい。帰り、たい。
「わっ、どうした…?」
「…ぐすっ、」
「怖かった?…ごめんね、キャプテン見た目怖いから余計怖かったかな?」
「…っ」
「キャプテン怖いけど、本当は優しいんだぞ?だから泣かないで!…ほら、とりあえずご飯食べよう?」
ライはブンブンと思い切り首を横に振った。
食欲なんてない、これっぽっちも湧かない。声も出ないその喉は、自身の唾液でさえも通ることを拒んでいるように狭い。泣くのも正直しんどくて、呼吸も苦しくて。…でも、今の自分にはそれしか出来なくて。
「…お腹空いてない?」
「……」
「わかった、ここに置いておくから、」
「…っ、」
「うちのシェフの料理、すごく美味んだ!温かいうちに食べた方がいいぞ!…あ、別に冷めても全然美味んだけど!」
口数が多いのは元々か、はたまた珍客のせいかは定かではないが、ベポのトーンは最初からなんら変わらなかった。自分に怪訝さも持たずに、気兼ねなく接し続けてくれている。トラファルガー・ローにあんなことを言われても、だ。
…今の自分にとって、ベポだけが希望なのかもしれない。だから、そんなベポの優しさを無駄にしたくなくてライはようやく一つ大きく頷いて返事をした。それを見てベポは安心したのか、また来ると言ってその場を去る。
「…………、」
涙でか、霞んでいくもう一人の自分の姿。
バタン_
彼らとの距離を隔てるその重い扉の音が、やけに体に響いた気がした。
***
「――あの子、きっとおれのファンなんだよ!!」
…あぁ、ほら。やっぱりコイツはノーテンキだ。この世界に海賊のファンなんかいるかというツッコミは心に留め、ペンギンは嬉しそうに戻ってきたベポに盛大なため息を送った。
「…様子はどうだった」
「ご飯食べたくないってさ。途中でキャプテンが来て、それにビビってあの子泣いちゃって」
「……そうか、」
「なぁ、あの子何したんだ?」
「……」
ペンギンはベポのその質問にすぐに答える事が出来なかった。
彼女は別にこれといって何かをしでかした訳ではない。ベポの"ぬいぐるみ"を着て、海賊に追われていただけ。
強いて言うならば自分とシャチの名前を呼んだ。まだ手配書にはなっていない、そんな自分たちの名前を知っていた。…それだけだ。
「…船長はスパイだって言ってるがな」
「スパイ?あの子が?」
「ああ」
「…そんな風には全然見えないけどなぁ」
そんなことわかってる。…そう言おうとして、ペンギンはその口をキツく閉ざしてその言葉を止めた。
あの涙も表情も、偽りではないことくらいわかっていたような気もする。けれども確証のないそれはただの自分の勘。彼女はそんな奴じゃないと、第一印象からの思い込みにすぎない。…この船の副船長であろう自分が、見知らぬ者を軽薄視してはいけない。だから少し、一線を引いて接した。それでいい、何も己は間違えてなどいない。
「……、」
言い聞かせるように、ペンギンは大袈裟に一つ溜息を吐いた。