「――遅くまで悪かったな」
すっかり日も暮れて、月が顔を出し始めた頃。いつの間にかフェードアウトしたクルーの笑声は、違った意味で煩い鼾に変わっていた。
「いやいや、久しぶりの来客で楽しかったよ」
何もない簡素な島である事とログが溜まるのに時間がかかる為か無理やり指針を変えてしまう船が多く、滅多に滞在する"旅人"はいないと店主は少し寂しそうに言った。海賊なんて来ない方がマシだろうとペンギンが返せば、君達のような輩は大歓迎だよと今度は嬉しそうに笑って言う。…やはりこの島は、そういった事に程遠い場所なのだろう。
潰れたクルー達は今だその酒場で寝転がっている。この村にクルー全員が泊まれるような大きな宿屋はなく、いつも通り船での寝泊りが決まっていたが、けれどもこの潰れたクルーを船まで運ぶのは一苦労である事を見越してくれたのだろう。とっくの昔に閉店時間など過ぎているが、店主はそのままにしておけばいいと言ってくれた。
そうしてローとペンギンは、静かに酒場を後にした。
ライはというと、ペンギンの背におぶられている。…何故ペンギンかなんて愚問で、ただ単にローが面倒臭がったからである。
前回とは違い意識のない彼女は落ちまいという本能で必死なのか、その腕をペンギンの首にガッチリ回しピタリとくっついていた。間近で感じる彼女の体温・呼気に少なからず―いや、結構恥ずかしさを感じているペンギンは内心ドキドキしっぱなしだったが(おそらく自身も酒が回っているから余計)、ローにそれを悟られぬよう平然を装うのに必死である。
「ったく、幸せそうな顔しやがって、」
そんな事も露知らず。ローはグリグリとライの頭を乱暴に撫でて遊んでいる。それによって揺れる彼女の振動が自分にも伝わってくるもんだからいささか歩きにくい事もきっと彼は…いや、分かっている。…否。もしかしたら、彼は全部分かっているのかもしれない。
「……」
酒場でといい今といい、ライにそうして触れるなんて船長はどこか上機嫌な気がして止まないが、その理由はわからない。この人のテンションの沸点がどのくらいのレベルでまたそれが何によって上がるのかも、長年一緒にいるペンギンでさえ今だ正しい数値を求められていない。
…ただ、気になるのは。
「…店主が言っていたな、この島に寄る海賊は少ないと」
「…あぁ?」
「…………本当は、寄らないつもりじゃなかったのか?」
ピク、と反応したローは、ライの頭に手を置いたまま動きを止めた。
「……だったら、どうなんだよ?」
本当はそうするつもりだった事がペンギンにバレた事が問題なのではない。自分がそう命ずれば彼等は何も言わずに進路を変えたに違いない事も、船長である自分が理解していないわけでもない。
…じゃあ、何が問題なのかって?
それに決定打を与えたのが、…ローのその考えがまるで最初から無かったかのように消え失せてしまったのが、
「…………ライの、為か?」
偵察に行って戻ってきたライの顔を、見た瞬間だったということ。
「…………」
どの島でもそうだった。最初は警戒心に溢れ、次は恐怖心に苛まれて、ライの表情はずっと強張ったモノとなっていた。彼女はそれを悟らせまいとしていたようだが、きっと顔に出るタイプなのだろう。船の上で見せる笑顔がまるで無かったかのように島に降りた途端に消えてしまっている事など、ローが気づいていなかったわけではない。
確かに自分は「慣れろ」と言ったが、何もずっとライにそんな険しい顔をさせ続けたかったわけではなかった。単純に、彼女にも島を楽しむ権利はある。この世界にだって至福な時が存在する事を、彼女はもっと知るべきだと思っている。
だから、島でもライがライらしくいれる日が早く来ればいい、だなんて。…思い始めたのは、一体いつの頃からだっただろうか。
「…………だったら、どうなんだよ?」
ローのその思いがけない返事に、ペンギンは動かしていた足を止めてしまった。
そんな曖昧な返事が聞きたかったわけではない。彼は必ず全否定してくると、その確信と希望があってこその質問だった。
ペンギンは何も返す事が出来なかった。ドクドクと上がる鼓動、それはきっとライのせいではない。何かに追われるような焦燥感は、いつか感じたモノと相似しているような気もして、
「……バーカ。んなワケあるか」
真に受けたような顔のペンギンにどこか気まずさを感じ取ったのか、ローは踵を返し少し強調するようにそう言った。
「たまにはいいだろ、こんなのもよ」
そんな言葉が彼の口から発せられる事も信じられなかったが、ペンギンはそそくさと歩きだしたローの背中に一つ返事をして、ずり落ちそうなライをおぶり直しながらゆっくりとその足を進めた。
…本心は、わからない。ローが彼女を思ってそうしたにしろそうでないにしろ、彼の中での彼女の位置づけは格段に上がっている。それに彼は確実に、その"距離"をも縮めようとしている気がして。
「……――」
ペンギンは無意識に、ライを支える腕に力を込めていた。
***
「――よぅ、起きたか寝坊助」
「……」
開けた視界に入り込もうとする明るさに嫌気がさして、無理やりそれを閉じようとした時。上からかかった嫌味声に、けれども脳は反応することなくまた夢の中へ落ちていこうとしていた。
いつもならすんなりと起きるのだが、今日はやけに身体が重い。
「……っ」
重い。…いや、違った意味で。
「ほら、早く起きろ」
「……お、起きるんで退いて下さい――」
身体にのしかかる重圧は紛れもなく声の主のモノだった。うつ伏せになっていた自分の上に座るなんてどこまでこの人はエスなんだと思いつつ、急に感じなくなった重みにそれが退いた事を悟って即ライはゆっくりとその身体を起こす。
寝坊助だなんて言うわりにはそんなに遅い時間でもなく、寧ろいつもより早い時間だった。昨日の宴を何時までやっていたのかは知らない。いつのまにか記憶はなく、…というより思い起こせば記憶そのものも曖昧だ。飲みすぎたかと思う傍ら、だから彼はご機嫌斜めなのかもしれない。ライは何故かベットの上に正座し出していた。
「……あの〜、」
「運んだのはペンギンだ。礼ならペンギンに言え」
クルーは町にいるらしく(というよりまだ酒場で寝ているだろう)、行きたかったら行って来いと言ってローはソファへ移動する。何故わざわざ自分の上へ乗っかったのかはきっと愚問なので問いかけないが、彼はいろいろと悟るのが上手いなと思う。さすがは船長と言うべきか、医者と言うべきか。
「船長は行かないんですか?」
「…行ったってする事ねェだろ」
俺はここに引きこもる。そう言ってローは無作為に選んだ本を手にとりパラパラとページをめくっていた。
騒ぐクルーもいないこの船は静かで、読書するには絶好の機会だろう。だったら自分もお邪魔してはいけないと思い、ライは行ってきますと言って船長室を後にした。
*
「――…ライ」
「ペンギン、おはよ」
甲板に出れば、そこにはペンギンが1人でいた。朝のすがすがしい気候が気だるかった身体の目覚めに拍車をかける。ライは伸びを一つすると、ペンギンの方へと駆け寄った。
「あの、昨日ゴメン。…運んでくれてありがと」
「っあぁ……船長から聞いたのか?」
そうだよと言って、また飲みすぎたと反省しだすライ。そんな彼女を横目に昨日の事が思い出されて若干火照る身体をペンギンは咳払いして落ちつかせようと、必死。
「…ペンギンは町に行かへんの?」
「今から行くところだ。酒場で寝てる馬鹿達を起こしに行こうと思ってな」
クルーが町にいるとはそういう事かとライは思った。自分だけ運んでもらったのかと問えばお前は女の子だからなと言われ、何故かドキッとする心。それが当たり前なのかもしれないが、ペンギンに女の子扱いされるとちょっと―いや、かなり嬉しいものがある。
「…ウチも行っていい?」
「あぁ、蹴り起こしてやってくれ」
「ふふ、りょーかい!」
実を言えば、ペンギンはライが起きてくるのを若干待っていた気はあった。まさかそんな早く起きてくるとは思ってもいなかったが、きっと彼女は町に行きたがると思っていたから。
「…今日は早起きなんだな」
「あー…うん。船長に起こされた感満載なんやけど、」
起きたら船長が自分の上に乗っていたというライに若干違う事を想像してしまったペンギンはすぐにその思考回路を遮断しようとしたが…今日の脳はどうにも切り替えが悪いようで。
「…なぁ、ライ」
「ん?」
「……いや、ほら、なんだ。……船長に何か嫌な事とか、されてないか?」
いや、"何か嫌な事"って何だ。確実にその回答があるにしろライに逆質問されれば困るそれを問うてしまったのは、いつも以上に睡眠時間をとったせいで脳内整理が上手く出来ずに残ってしまった蟠りのせいなのか。
昨日の船長の言動がやけに鮮明に再生され続ける。酔って上機嫌でその勢いでなんて、あの船長なら考えられなくもない。
だからと言って、それを直接本人に聞くのもどうかしているとも思う。思ってから後悔しても遅いのだが…どうして自分はそれを口にしてしまったのだろうかと、
「え?別になんもされてへんよ?」
けれども。それを分かってか分かってないかは定かではないが、ライは結構アッサリと返答した。その表情を読み取れば、彼女が嘘を付いているようには思えなかった。
「…………そうか。ならいいんだが」
いろんな意味で安堵した傍らで、どこか靄が残る気がした。一体自分は"何"を取り詰めているのだろうかと。
彼女を巡るクルー内での紛糾、船長と彼女のリレーション。それを随分気にかけるのは…それはただ副船長として船の規律を守る為だったハズで。
「けど最近、船長にやたら苛められてる気はするなぁ」
彼は絶対自分の事を女だと思っていない。けれどもそれが当たり前であって、まるでそれで納得しているかのようにライはサラリと言った。
「……あの人は人を虐めるのが趣味だからな」
彼女がそれを意識していないのは、きっと彼女自身がそれに対して抵抗を持っていないからだとペンギンは思う。
だから、例えばの話。セイウチの数々の危ない発言も、毎日船長の抱き枕と化している事も、ただペンギンが意識しすぎているだけで、彼女にとってはただの日常にすぎないのかもしれなくて。
「あはっ、それ確か船長自分で言ってたっけ」
…例えばの話。セイウチにとっても、船長にとっても、彼女へのそれが本当にただの日常の一コマに過ぎないのだとしたら。
「ってかさあ」
だから、もしも。…もしも、だ。
「誰もウチの事女として見てないと思う」
他の誰でもなく、今の自分がそれを乱す因子だったとしたら。
「…………、」
それは、彼女への想いが蓄積されるたびに懸念される秩序に変わっただけだと思っていた。けれどもそうであるが故に、一歩間違えれば自分をあらぬ方向へ走らせる代物と成り得るのだとしたら。
――そういうペンギンが一番危ないんじゃないの
今になって脳内を色濃く染める一番の危険因子だった彼の言葉。まるで自分への警鐘を鳴らすようで…だからといって自分は一体何を望んでいるのか、なんて。
「ペンギンとベポくらいやって。ウチを女の子扱いしてくれるの」
無垢な笑顔を見せるライに、ペンギンは何も返せなかった。